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真田隊や毛利隊がどれだけ家康自身に迫ったのかは諸説あり、そのため後世の創作である軍記、歌舞伎、[[錦絵]]や再現イラスト、歴史漫画では様々な様子が描かれている。また、家康の周囲にいた人間も小栗又一、大久保彦左衛門など本によって様々である。
 
信繁討死についても諸説があるが、一般的には「[[安井神社 (大阪市)|安井神社]]で石畳に腰をかけているところを討たれた」と言われている。安井神社は[[天王寺公園]]・茶臼山の北にある[[一心寺]]の北に所在する。これは明治時代に当時の[[大日本帝国陸軍]][[参謀本部]]が制定したものとされ、安井神社にある「眞田幸村戦死跡之碑」には戦死の地の選定に際しての参謀本部の関与を示す一文が刻まれている。
 
信繁を討ち取った[[西尾宗次]]が属した[[越前松平家]]の文書<ref>『忠昌様大坂ニ而御戦功有増』(『松平文庫』、福井県立図書館所蔵)</ref>が近年発見<ref>「真田幸村の最期に新説、越前松平家の古文書で発見」[[読売新聞]]、2013年2月25日付</ref>され、これによると、西尾は生玉([[生國魂神社]]の周辺)と勝鬘([[勝鬘院]]の周辺)の間の高台で休息していた信繁を討ち取ったといい、安居神社説は誤伝とみられる<ref>{{Cite book|和書|author=丸島和洋|authorlink=丸島和洋|title=真田四代と信繁|series=平凡社新書|year=2015|pages=251-252}}</ref>。