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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 相合元綱
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'''相合 元綱'''(あいおう もとつな)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[毛利氏]]の家臣。[[毛利弘元]]の三男で庶子{{Sfn|吉田龍司|2010|p=22}}。[[船山城|船山城主]]{{Sfn|吉田龍司|2010|p=257}}。本来の名字は毛利であるが、所領の名を取って「相合」とした{{Sfn|吉田龍司|2010|p=257}}
 
== 生涯 ==
[[安芸国]]の[[国人]]領主・毛利弘元と側室の相合大方の子として誕生{{Sfn|吉田龍司|2010|p=22}}。異母兄に正室の子である[[毛利興元|興元]]・[[毛利元就|元就]]がいる。武勇に秀でており「今義経」の異名を取ったと伝わる{{Sfn|吉田龍司|2010|p=257}}
 
[[永正]]14年([[1517年]])の[[有田中井手の戦い]]では、次兄の元就と共に[[武田元繁]]を討つなどの活躍を見せた{{Sfn|吉田龍司|2010|p=52}}。また、元就とも仲が良かったといわれる。
 
[[大永]]3年([[1523年]])7月、甥で当主であった[[毛利幸松丸]](興元の子)が9歳で病死すると、元綱の異母兄・元就が後継者となることが決定した。これに対し、[[坂広秀]]・[[渡辺勝 (戦国武将)|渡辺勝]]ら、元綱の擁立画策てい{{Sfn|吉田龍司|2010|p=52}}。一説には、[[尼子豊久]]を毛利氏の娘婿として当主に立て、元綱は後見人となる予定であったとも言われる。
 
大永4年([[1524年]])4月、元綱らは元就の暗殺を計画したが、それに気付いた元就は先手を打ち、[[志道広良]]に300の兵を率いさせて元綱の居城・[[船山城]]を急襲させた('''元綱事件'''{{Sfn|吉田龍司|2010|p=56-57}})。『[[陰徳記]]』によると、対する元綱の手勢は30名余りとされる)。だったが、武勇に優れる元綱は広良の軍勢を押し返す抵抗を示すが、最後には体中を射抜かれた後に槍で刺されたと言われる{{Sfn|吉田龍司|2010|p=56-57}}。また、別説では尼子氏の謀略により憤死したとも伝わる。ただし、その没年には、大永3年8月から大永5年([[1525年]])3月の間、と諸説ある。
 
==死後==
子の元範は幼少であったため、罪を許された。後に敷名を名字とし、備後地方を拠点とする毛利家臣となった。
 
元綱派は尼子氏の有力家臣の[[亀井秀綱]]を後ろ盾としており、この内紛に[[尼子経久]]の意志が絡んでいることは明白であったため{{Sfn|吉田龍司|2010|p=52}}、元綱殺害後、元就は尼子氏から離反し[[大内氏]]への接近を図るようになった。
 
なお、元就には、子の[[毛利隆元|隆元]]、[[吉川元春]]、[[小早川隆景]]に兄弟の絆を大切にするように諭したという逸話([[三子教訓状]])が伝わるが、それはこうした悲劇を経験したからであるといわれている<ref>毛利元就「猛悪無道」と呼ばれた男 {{Sfn|吉田龍司|2010|p=56- 第三章 "鷲の羽"を継いだ次男坊</ref>57}}
 
== 登場作品 ==
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== 注釈 ==
{{Notelist}}
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=吉田龍司|date=2010-9|title= 毛利元就 「猛悪無道」と呼ばれた男|publisher=[[新紀元社]]|isbn=978-4-7753-0840-0}}
 
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