「ジェルメーヌ・タイユフェール」の版間の差分

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「六人組」は、当初は共作を行い、ピアノ曲集『六人組のアルバム』(''Album des Six'')などを出版した。[[ルイ・デュレ]]を除く5人は、その後もコクトーの台本『[[エッフェル塔の花嫁花婿]]』(''Les Mariés de La Tour Eiffel'')をもとにバレエ音楽を共作した。このバレエは、もともとコクトーがオーリックに持ちかけて始まったものだったが、オーリックがリハーサルに間に合うように作曲できるほどの速筆ではなかったため、六人組で共作することになったのである。この頃デュレはパリにいなかったために参加していない。[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]や[[エリック・サティ|サティ]]の評価をめぐる他の同人との意見の食い違いから、デュレはやがて六人組を脱退することになったが、この頃デュレはまだ毎回、六人組の演奏会に出席しており、その後も他の同人との関係は悪くなかった。また六人組は、もとより各人の志向性に相違があり、それぞれの同人が初めから別々の道を歩んでいたことにも留意すべきであろう。
 
タイユフェールはといえば、[[モーリス・ラヴェル]]の知遇を得て、[[1923年]]からモンフォール=ラモリのラヴェルの自宅に通って個人指導を受けていた。ラヴェルは早くから彼女とミヨーの才能を激賞しており、タイユフェールに[[ローマ大賞]]選抜試験を受験するように励ましていた。しかし[[1925年]]、タイユフェールはアメリカ人の諷刺漫画家[[ラルフ・バートン]]に口説き落とされ、結婚して[[ニューヨーク]]の[[マンハッタン]]に移住してしまう。[[1927年]]に2人はフランスに戻るが、[[チャーリー・チャップリン|チャップリン]]を含む幅広い著名人と親交の深かったタイユフェールに対して、バートンが嫉妬から兇暴化し(一説によると[[ドメスティックバイオレンス|家庭内暴力]]さえ日常的であったといわれる)、耐え難くなったタイユフェールは、間もなくバートンと離婚した。
 
後にバートンと結婚した理由を尋ねられて、タイユフェールは「寂しかったから」と答えているが、[[第一次世界大戦]]に前後する時期、タイユフェールは[[ヴァイオリニスト]]の[[ジャック・ティボー]]と愛人関係にあり(『ヴァイオリン・ソナタ第1番嬰ハ短調』はティボーに献呈されている)、報われぬ恋に疲れていた。その矢先に、遊び人のバートンに言葉巧みに誘惑されてしまったというのが真相らしい。