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=== その他 ===
川端が大戦中、[[神雷部隊]]に報道班員として赴任していた時、隊に所属していた杉山幸照[[少尉]]曰く、川端は、燃料補給で降りた[[鈴鹿市|鈴鹿]]で飛行機酔いして顔面蒼白になっていたが、士官食堂では、[[カレーライス]]を奢ったところ、しょぼしょぼとしながらも綺麗にたいらげ、「[[特別攻撃隊|特攻]]の非人間性」について語ったという(杉山は元特攻隊昭和隊所属で、転属命令が出て川端と一緒に[[谷田部町|谷田部]]の海軍基地に行くところであった)<ref name="sugiyama">{{Harvnb|杉山|1972}}。{{Harvnb|森本・上|2014|pp=534-538}}</ref>。杉山は、自身の著作内の川端に関する回想で、最後まで川端が特攻について語ることがなかったのが残念であったと記している<ref name="sugiyama"/>。川端は赴任前に[[大本営]]報道部の高戸大尉から、「特攻をよく見ておくように。ただし、書きたくなければ書かないでよい。いつの日かこの戦争の実体を書いて欲しい」と通告されており、のちに高戸は、「繊細な神経ゆえに(特攻に関して)筆をとれなかったのではないか」と推測している<ref name="takado"/>。しかし、川端は秘密兵器として報道管制されていた特攻兵器桜花が報道解禁された直後の称賛[[プロパガンダ]]記事『霹靂の如き一瞬、敵艦ただ死のみ・川端康成氏“神雷兵器”語る』という記事に、「これさへあれば沖縄周辺の敵艦船群はすべて海の藻屑としてくれるぞ」や「この神雷兵器(桜花のこと)は小さな飛行機の形をしていて色彩も優美で全く可愛い」などという称賛の談話を寄せている([[朝日新聞]] 1945年6月1日)。

敗戦後、川端は、「生と死の狭間でゆれた特攻隊員の心のきらめきを、いつか必ず書きます」と島居達也候補生に約束したとされる<ref>海軍神雷舞台戦友会編集委員会編・著『海軍神雷部隊 最初の航空特別攻撃隊』(海軍神雷舞台戦友会、1996年3月)</ref>。なお、川端が特攻隊の青年たちに触れた作品には『生命の樹』があるが、一部分が[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により削除されたという<ref name="hideko5"/>。
 
[[洛中]]に現存する唯一の蔵元[[佐々木酒造]]の日本酒に、「この酒の風味こそ[[京都]]の味」と、作品名『[[古都 (小説)|古都]]』を揮毫した。晩年川端は、宿泊先で[[桑原武夫]]([[京都大学|京大]][[名誉教授]])と面会した際に「古都という酒を知っているか」と尋ね、知らないと答えた相手に飲ませようと、寒い夜にもかかわらず自身徒歩で30分かけて買いに行ったと、桑原は回想している<ref>[[桑原武夫]]「川端康成氏との一夕」(文藝春秋、1972年6月号掲載)、『人間素描』(筑摩書房、1976年6月)に所収</ref>。