「北条氏康」の版間の差分

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大危機は軍事面だけではなかった。河越夜戦の後しばらくの間の領地経営は手間取り遅滞した。特に天文18年(1549年)に関東で発生した大地震では被災した領民への対応が後手に回り、領国全域で農民が村や田畑を放棄しての逃亡が大規模に起こる「国中諸郡退転」という深刻な状況に陥ってしまったため、天文19年(1550年)4月付けで'''公事赦免令'''を発令した。これは伊豆から武蔵南部にまたがる領域に、直轄領・給人領の別なく朱印状を発給し、それまで雑多な徴収をされていた賦税課税の手順や対象や課税率を単純化・軽減化して税制改革すると共に、特定の賦役の廃止や免除、過去設定されていた諸税を撤廃、指定の債務を破棄するというものである。この発布により事態を収拾したが、これは北条氏が全領国規模で行った初めての徳政であった<ref name="kujisyamen">黒田「公事赦免令」『戦国大名の危機管理』pp62-84。</ref><ref name=yamaguti053>{{Harvnb|山口|pp=53-84}}</ref>。
 
この「公事赦免令」は、目安制によって、中間管理者に対する農民の直訴をも認め、徴税や徴発の統一化による中間搾取の回避と共に、中間管理者に当たる領内の中小規模の旧支配層の権限縮小することで、関東の地生えの付きではない北条氏の支配権の強化につながっていった<ref name="kujisyamen"/><ref name="owada">小和田『北条早雲とその子孫』p108</ref>。
 
=== 河越夜戦後の関東攻防 ===