「三条実親」の版間の差分
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{{基礎情報 公家
| 氏名 = 三条実親
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[鎌倉時代]]
| 生誕 = [[建久]]6年([[1195年]])
| 死没 = [[弘長]]3年[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]([[1263年]][[11月6日]])
| 改名 =
| 別名 =
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[従一位]]・[[右大臣]]
| 主君 = [[後鳥羽天皇]]
| 氏族 =
| 父母 = 父:[[三条公房]]、母:[[中山忠親]]
| 兄弟 = '''実親'''、[[三条実平|実平]]、[[三条有子|有子]]
| 妻 = [[西園寺公経]]
| 子 =
| 特記事項 =
}}
'''三条 実親'''(さんじょう さねちか)は、[[鎌倉時代]]初期から中期にかけての[[公卿]]。[[太政大臣]]・[[三条公房]]の長男。[[官位]]は[[従一位]]・[[右大臣]]。'''白川'''、又は'''後三条'''と号す
== 経歴 ==
[[建久]]10年([[1199年]])[[従五位|従五位下]]に叙せられる。[[建仁]]2年([[1202年]])従五位上、建仁3年([[1203年]])[[侍従]]に任ぜられ、建仁4年([[1204年]])[[正五位|正五位下]]に叙せられる。
[[元久]]2年([[1205年]])[[近衛府|右近衛少将]]に任ぜられる。元久3年([[1206年]])[[従四位|従四位下]]・[[信濃国#国司|信濃権介]]に叙任され、[[建永]]2年([[1207年]])従四位上に昇叙。[[承元]]2年12月([[1209年]]1月)には右近衛中将に転じ、承元3年([[1209年]])[[正四位|正四位下]]、承元5年([[1211年]])[[従三位]]に叙せられ
建保5年([[1217年]])[[土佐国#国司|土佐権守]]を兼任。建保7年([[1219年]])[[中納言|権中納言]]に任ぜられ、[[中宮職|中宮権大夫]]を兼帯、[[承久]]2年([[1220年]])[[従二位]]に叙せられる。承久4年([[1222年]])[[正二位]]に昇叙。[[元仁]]元年12月([[1225年]]2月)には中納言に転じ、元仁2年12月([[1226年]]1月)さらに[[大納言]]に任ぜられた。しかし、[[貞永]]元年([[1232年]])10月より籠居している<ref>序列と年齢が下であった[[大炊御門家嗣]]が[[近衛大将|右近衛大将]]に任ぜられたためと考えられる。実親はついに近衛大将に任ぜられなかったのである。なお、同時期に[[九条基家]]と[[徳大寺実基]]も籠居している。[[西園寺家]]台頭、[[摂家|五摂家]]分立の時期にあって、官位昇進の順序をめぐって不満が生じていたと考えられる。</ref>。
[[嘉禎]]4年([[1238年]])
== 官歴 ==
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**長男:[[三条公親]](1222-1288)
**次男:[[三条公泰]](1231-1305) - 実五男か<ref>『[[尊卑分脈]]』。</ref>。
*
**男子:[[三条公隆 (鎌倉時代)|三条公隆]]
**男子:[[三条公緒]]
**男子:[[三条公朝]]
**男子:公尊
**男子:実円
**男子:定敒
**男子:
**男子:
**男子:
**男子:公禅
**男子:円禅
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{{三条家}}
{{DEFAULTSORT:さんしよう さねちか}}
[[Category:三条家|さねちか]]
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