「常溪君」の版間の差分

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== 生涯 ==
彼は[[恩彦君]]と本妻の[[常山郡夫人宋氏]]の長男として生まれた。彼が生まれたときは[[英祖]]の統治期間だったが、しかし[[英祖]]は[[正祖]]のほか[[思悼世子]]の庶出孫をそっぽを向いに対して、生活ほとんど関心全く世話し持たなかった。
 
[[洪国栄]]は[[金鍾秀]]と老論清流派と結託して、王世孫[[正祖]]を排除しようとする[[老論]]僻派と闘争した。[[1776年]][[正祖]]が即位すると[[正祖]]は後宮に三を3迎える。この中に、[[洪国栄]]の妹[[元嬪洪氏]]も後宮となっがいた。しかし、正祖と[[元嬪洪氏孝懿王后]]は懐妊すや側室との間に子供が出来ことはなく、事態を憂慮した[[洪国栄]]は[[恩彦君]]の息子である李濬を[[元嬪洪氏]]の養子とし、事態を打開しようとした。その後、養子となった李濬は'''完豊君'''に封じられた。<ref>[http://sjw.history.go.kr/id/SJW-G03060020-01800 完豐君濬에게 관직을 제수함]</ref> 完豊君完は王室の故郷である完山から、豊は豊山洪氏として[[洪国栄]][[元嬪洪氏]]の故郷から取ったものである。彼は王世子はかったが完豊君は王世子に相当する扱いを受け、假東宮や假世子と呼ばれた。
 
養子縁組の過程については、[[元嬪洪氏]]の死後に養子縁組をしたという説と[[元嬪洪氏]]の生前に養子縁組をしたという説がある。韓国史学界では元嬪死後の養子縁組説を多くとる。
 
なおこの一件の後、[[洪国栄]]は[[金鍾秀]]ら老論清流派によって逆賊と糾弾されて公職から追放された。この追放には、[[洪国栄]]に反感を抱いていた[[老論]]僻派加担したとされる。
 
[[1779年]][[5月7日]][[元嬪]]が死去する重臣たちは洪国栄を処刑しろは[[金鍾秀]]ら老論清流派によって逆賊と糾弾されて公職から追放され、同時。この追放は、[[洪栄]]に反感軽んじた彼を殺すべきとう上奏も上がり続け。ついに[[正祖老論]]僻派も加担したとされる。さらに正祖は完豊君の爵位を剥奪し、[[議政府]][[右議政]][[李徽之]]の提案で新爵位常溪君に任命し、名前だけ李濬から李湛に改名することで幕引きを図った。[[1786年]][[11月20日]]、この一件の首謀者とされた洪国栄は[[漢城府]]での取調べの後毒薬により処刑された。<ref>[http://www.pressian.com/news/article.html?no=114429 정조의 꿈‥아름다운 화성(華城)] 프레시안 2014.02.20. {{ko icon}}</ref> 洪国栄の死を主導した者は[[洪国栄]]説<ref name="san1"/>と彼の実父[[恩彦君]]説がある。<ref name="san1"/>
 
=== 死亡後 ===
彼の実母[[常山郡夫人宋氏]]と妻平山郡夫人平山申氏は後に[[カトリック教会]]を信奉し<ref>二女人の[[カトリック教会]]洗礼名がマリア(Maria)である。</ref>、[[清国]]の神父[[周文謨]]から洗礼を受けた。1801年、誰かの告発でより実母[[常山郡夫人宋氏]]と妻平山郡夫人平山申氏は[[薬]]死遭いなり、彼の生父恩彦君も連座により毒殺された。恩彦君は密かに流刑地を脱出しようとして発覚して死刑された。<ref>[http://www.chosun.com/culture/news/200508/200508300265.html 요절한 동생 앞에 선 정조의 눈물] 朝鮮日報 2005.08.30. {{ko icon}}</ref>[[1849年]][[哲宗]]即位後宝くじた。[[哲宗]]の時と[[高宗]]の時きそ常溪君その関連し[[承政院日記]]、[[日省録]]と[[朝鮮王朝実録]]の材料を大量にセチョ、墨汁の塗りしたりと破棄してしまった。
 
彼の墓は[[ソウル特別市|ソウル]]北部[[延禧宮]]の近く[[新村駅 (ソウル交通公社)|新村駅]]2、3番出口と[[延世大学校]]の正門周辺の中でに埋めたが、後日彼の墓地位置は失われてしまった。