「紫電改」の版間の差分

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[[第三航空艦隊]]では、343空に配備されていた機体を除く全ての紫電改、紫電を集め、彩雲、百式司偵と共に爆装することで、米護衛戦闘機や対空砲火の高速突破による高い命中率(命中率25パーセント)を期待している<ref>『最強戦闘機紫電改』146頁「『紫電改』と特攻作戦」</ref>。もっとも紫電改の生産数が月70機を越えることはなく、計画は中止となった。
 
1945年(昭和20年10)10月16日に米軍に引き渡すための空輸の際<ref>『最強戦闘機紫電改』57頁</ref>、米軍のハイオクガソリンを用いて全速で飛ぶ紫電改3機(志賀淑雄少佐、田中利男上飛曹、小野正盛上飛曹が示し合わせて実行。武装撤去、銃弾未搭載のため軽量)に、実弾を装備した監視役の6機の[[F4U]]は置き去りにされそうになったという<ref>碇義朗『最後の戦闘機紫電改』263頁、田中の証言。但し田中はF4UではなくF6Fとしている。</ref>。
 
紫電改で戦った搭乗員からの評価は高く、[[三上光雄]]は「軽戦に対する重戦でありながらも零戦の塁を摩する」「零戦は軽戦、紫電改は重戦と言うべく十分使えた」、[[磯崎千利]]、[[松場秋夫]]は「零戦同様に使えた」と評し、磯崎は最大の欠点として高速ダイブ中の戻りに対する強度不足を挙げている<ref>海空会『海鷲の航跡』134-135頁</ref>。笠井智一、佐藤精一郎は失速性その他に注意しながらも紫電改で戦えたことを最高の誇りとし、20ミリ4銃の威力と包路線型フラップの効用を評価した<ref>海空会『海鷲の航跡』134頁</ref>。[[岩下邦雄]]や[[笠井智一]]はF6Fと互角に戦える素晴らしい機体として歓迎した<ref>『最強戦闘機紫電改』164-165頁</ref>。笠井によれば、紫電改にとって最も手強かった米軍戦闘機はF6Fで<ref>『最強戦闘機紫電改』168頁</ref>、紫電と紫電改には雲泥の差があり、紫電改配備後の訓練搭乗機に紫電を指定されると、全員が気落ちしたという<ref>『最強戦闘機紫電改』164頁</ref>。[[本田稔]]は、当時の若年搭乗員で12機編隊着陸が一様にできた操縦性、腕比利用による高低速両用の操縦性を評価し、戦後の三菱テストパイロットとしての外遊資料から大戦末期における双璧は紫電改とP51であると述べている<ref>海空会『海鷲の航跡』134頁</ref>。紫電改のテストパイロットだった[[志賀淑雄]]は紫電改は猪のように何にでも食いついていけるおてんば娘で使える機体だと思ったという<ref>神立尚紀『零戦 最後の証言』光人社NF文庫 55頁</ref>。当機での実戦経験はないが教育に関わった[[坂井三郎]]は、航続力がない点からみれば九六艦戦時代に逆戻りした感があるが、極めて斬新な設計(空戦フラップ)が施された優秀な戦闘機と評していた<ref>坂井三郎『坂井三郎空戦記録 下』340頁</ref>。しかし、晩年には「制空戦闘機とも局地戦闘機ともいえない中途半端な戦闘機」と評して批判的になった<ref>世良光弘『坂井三郎の零戦操縦』170頁</ref>。坂井は、343空に教官として着任した際に『局地戦闘機 紫電一一型空中使用標準参考』(一一型を紫電改と間違えている)を制作したとして、空戦フラップを「旋回性能は良くなるが、作動の面で信頼性に欠けた」「舵が効きすぎた時の修正が難しい」など批判するが、「[[水銀]]の表面が酸化して導通が悪くなり、油圧機が誤作動する(水銀は常温で酸化しない)」などの非科学的な内容を含んでいる<ref>世良光弘『坂井三郎の零戦操縦』174-177頁</ref>。
[[本田稔]]は、当時の若年搭乗員で12機編隊着陸が一様にできた操縦性、腕比利用による高低速両用の操縦性を評価し、戦後の三菱テストパイロットとしての外遊資料から大戦末期における双璧は紫電改とP51であると述べている<ref>海空会『海鷲の航跡』134頁</ref>。
紫電改のテストパイロットだった[[志賀淑雄]]は紫電改は猪のように何にでも食いついていけるおてんば娘で使える機体だと思ったという<ref>神立尚紀『零戦 最後の証言』光人社NF文庫 55頁</ref>。当機での実戦経験はないが教育に関わった[[坂井三郎]]は、航続力がない点からみれば九六艦戦時代に逆戻りした感があるが、極めて斬新な設計(空戦フラップ)が施された優秀な戦闘機と評していた<ref>坂井三郎『坂井三郎空戦記録 下』340頁</ref>。しかし、晩年には「制空戦闘機とも局地戦闘機ともいえない中途半端な戦闘機」と評して批判的になった<ref>世良光弘『坂井三郎の零戦操縦』170頁</ref>。坂井は、343空に教官として着任した際に『局地戦闘機 紫電一一型空中使用標準参考』(一一型を紫電改と間違えている)を制作したとして、空戦フラップを「旋回性能は良くなるが、作動の面で信頼性に欠けた」「舵が効きすぎた時の修正が難しい」など批判するが、「[[水銀]]の表面が酸化して導通が悪くなり、油圧機が誤作動する(水銀は常温で酸化しない)」などの非科学的な内容を含んでいる<ref>世良光弘『坂井三郎の零戦操縦』174-177頁</ref>。
 
米技術雑誌『ポピュラーメカニック』では、米空軍の試験で紫電改のマグネットを米製に替え、100オクタン燃料を使って空軍で飛行した結果、速力はどの米戦闘機にも劣らず、機銃威力は一番強いと紹介された<ref>『最強戦闘機紫電改』108頁</ref>。
[[ピエール・クロステルマン]]の著書「空戦」では、紫電改が高度6,000mで[[P51|P51マスタング]]44年型と同程度のスピードを発揮したことからマスタング44年型のカタログスペックを基準とした最高速度時速680km説を採用しており、当時の連合軍の空軍関係者はその程度の速度と認識していた。また、川西航空機設計課長だった菊原静男によれば、1951年(昭和26年に来日した米空軍将校団の中にアメリカで紫電改をテストした中佐がおり「ライトフィールドで紫電改に乗って、米空軍の戦闘機と空戦演習をやってみた。どの米戦闘機も紫電改に勝てなかった。ともかくこの飛行機は、戦場ではうるさい存在であった」と評したという<ref>『最強戦闘機紫電改』110頁。菊原静男、元川西航空機設計課長談。</ref>。
 
スミソニアン博物館に展示されている紫電改の説明文に「太平洋で使われた万能戦闘機のひとつである」とされながらも「B-29に対する有効な邀撃機としては高高度性能が不十分であった」と書かれているように、局地戦闘機としては高高度性能が優れているとは言えなかった<ref>碇義朗『最後の戦闘機紫電改』269-270頁</ref>。これは日本機に共通する欠点で、排気タービン過給器([[ターボチャージャー]])や二段式機械過給機([[スーパーチャージャー]])を実用化できなかったためである。なお、この紫電改の高高度性能不足の対策として、一時は生産中止されそうになった雷電の生産促進がなされている。主力戦闘機として大生産計画が立てられたものの、実戦配備がB-29による本土爆撃が本格化した1944年(昭和19年末であったこともあって紫電改の生産数は約400機に留まり、「大東亜決戦機」として3,000機以上生産され、文字通り大戦末期における陸軍の主力戦闘機となった四式戦とは対照的と評価されることがある<ref>『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』80頁</ref>。近藤芳夫(疾風開発者)は「疾風は一撃離脱の[[二式単座戦闘機|キ44(鐘馗)]]が原点。紫電改は空中格闘戦に拘っていた」と述べている<ref name="124傑作機71"/>。
 
『The Illustrated Directory of Fighters』(Mike Spick著)P.218によると、N1K2-J(紫電改)は[[高さ|高度]]19,030[[フィート]](5,800 m)において最高速度416[[マイル]](669 km/h)、[[海面]]高度において最高速度358マイル(576 km/h)、上昇率は高度20,014フィート(6,100 m)まで6分6秒との性能が記載されている。これらの数値は連合軍による[[鹵獲]]機での試験データに基づく数値と注釈で触れられているが、元となった試験情報の出典など詳細は不明である。英国のブランドフォード社の『原色航空機百科』(K.マンソン著)<ref>日本語版=1970年鶴書房刊--湯浅謙三訳・野沢正監修『第2次大戦戦闘機』</ref>では「太平洋戦線に出現した日本機中、最もすばらしいもののひとつであった」と高く評価されている。
英国のブランドフォード社の『原色航空機百科』(K.マンソン著)<ref>日本語版=1970年鶴書房刊--湯浅謙三訳・野沢正監修『第2次大戦戦闘機』</ref>では「太平洋戦線に出現した日本機中、最もすばらしいもののひとつであった」と高く評価されている。
 
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