「成田空港問題」の版間の差分

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この様な、過激な破壊行為による反対運動に対しては、主に警察力を用いた封じ込め策が図られたものの、中核派はそれを嘲笑うかの様に、1978年5月5日、[[京成電鉄]]が開港後の空港連絡列車「[[スカイライナー]]」に投入するため新製し、車庫に留置されていた[[京成AE形電車 (初代)|京成電鉄AE車]]を[[放火]]し、4両を全半焼させるという[[テロ事件]]・[[京成スカイライナー放火事件]]を引き起こした。また、5月19日にも[[京成本線]]5ヶ所で同時多発列車妨害事件を引き起こした。
 
当時、京成電鉄を筆頭に地元の列車内では反対派が事実上占拠しており、車内では竹槍をかざしながら対立組織に対する「検問」が日常茶飯事に行われていた<ref>[[成田空港問題#原口和久1|原口和久(2000年)]]、28頁。</ref>。地元住民の生活の足である『京成電鉄へのテロ行為』は、もはや空港反対運動の枠を超えた地域の社会基盤そのものへの破壊活動であり、空港周辺部以外の京成線沿線の住民からの反対派への白眼視を招いたのみならず、この頃始まった新左翼そのものの衰退や、当初の目的である開港阻止が叶わなかったことで『成田空港粉砕』を唱え、より先鋭化の傾向を見せる反対派に対して、国民感情は加速度的に乖離していった。
 
[[日本国有鉄道]]が国鉄職員扱いで独自の警察機能を有する[[鉄道公安]]が存在していたものの、この当時は都道府県警察によって活動する、私鉄も警備対象である[[鉄道警察隊]]がまだ存在していなかった(鉄道警察隊は1987年4月に活動開始)ため、京成電鉄では千葉県警察と連携して警備を実施する方法以外はなかった。