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== 歴史 ==
1925年、[[中国国民党]]は[[広東省 (中華民国)|広東省]]を本拠地とする[[国民政府|広東国民政府]]を開いた。同時に[[北京政府]]を倒して中国統一を果たすための軍隊設立に着手し、[[コミンテルン|国際共産主義組織(コミンテルン)]]の支援を得て建軍されたのが「国民革命軍」であった。この命名はコミンテルンの深い影響があった事を示しており、元々は中国共産党軍(紅軍)とルーツを同じくしてい。国民革命軍内では[[三民主義]]のイデオロギーに基づいた指導が行われていたので、国家(民族)と党(民権)と軍(民生)の区別がたびたび不明瞭化し、後年に相次いだ各部隊の脱走ないし離反の原因にもなった。士官の多くは[[黄埔軍官学校]]の卒業生で占められており、その初代校長であった[[蒋介石]]は、北伐開始前の1926年に国民革命軍の最高司令官に就任した。
 
1926年、蒋介石は[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を開始し各地の軍閥を服従させつつ、1928年に[[北京政府]]の攻略に成功して表向き中国全土を統一した。同年に[[南京市|南京]]を首都とする[[中華民国]]が樹立された。しかしすぐさま地方軍閥の反目が相次いで元の内戦状態に逆戻りした。1930年に軍閥連合との間で行なわれた[[中原大戦]]において決定的勝利を収めるも、混乱の収束までは到らず、取り分け[[毛沢東]]率いる[[中国共産党]]の活動は大きな懸念となっていた。すでに蒋介石はコミンテルンから距離を置いていた。1931年に発生した[[満州事変]]で日本軍に[[満州]]全土を占領されたが、同時期に毛沢東の[[中華ソビエト共和国|共産党政府]]が[[江西省 (中華民国)|江西省]]に打ち立てられたので共産党の脅威も眼前に迫っていた。抗日よりも反共作戦を優先した蒋介石は、大軍を動員して共産党軍への攻撃を開始した。数度に渡って共産軍を撃破した後に、1934年に江西省の[[瑞金市|共産党本拠地]]を包囲した。進退窮まった共産軍は[[ソ連]]と直接連絡を取れる[[陝西省 (中華民国)|陝西省]]を目指して[[長征|脱出]]した。蒋介石は各軍閥の掃討戦と並行して共産軍の追撃も続けた。1936年に共産軍は陝西省まで辿り着き[[長征]]を終えたが、これを追う蒋介石は再び大軍で包囲網を敷き、毛沢東は絶体絶命の窮地に置かれた。しかし同年12月に蒋介石が友軍の[[張学良]]に監禁されるという[[西安事件]]が発生した。その中で蒋介石は[[国共合作|国共合作案]]を呑まされて止む無く共産軍と休戦し、抗日統一戦線を組む事になった。なお当時の国民革命軍300万に対して、共産軍は1万人程だった。
 
1937年7月の[[盧溝橋事件]]の発生から日本軍の侵攻が始まると、共産軍は華北の[[八路軍]]と華南の[[新四軍]]に再編制されて国民革命軍に組み込まれた。1938年に[[南京市|南京]]が陥落すると[[国民政府]]は[[重慶市|重慶]]に本拠地を移して立て篭もった。中国大陸のほぼ東半分を舞台にして国民革命軍と日本軍の泥沼の戦いが続けられる中で、毛沢東はソ連の支援を受けながら各地の農村を[[オルグ (社会運動)|オルグ]]して急速に支持層を増やし、また共産軍の兵力も拡大させていた。1945年に日本が無条件降伏して日本軍が武装解除されると同時に国民党と共産党の争いも再燃化し、1946年に[[国共内戦]]の火蓋が切られた。抗日戦争期間中に漁夫の利を得ていた共産軍はすでに国民革命軍を凌ぐ戦力を蓄えていたので終始優勢に立ち、蒋介石は敗退に次ぐ敗退を重ねた。加えて国民革命軍は各部隊の離反や共産党への転向といった問題にも悩まされていた。[[広州市|広州]]まで追い詰められた蒋介石は[[台湾]]へ逃れ、1949年に[[台湾政府]]を樹立した。生き残った国民革命軍の各部隊も台湾へ撤退し、新天地を得た彼らは[[中華民国国軍]]と名称を変えた。
 
== 組織 ==