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しかし文藝春秋社員から「日本文化会議」機関紙刊行について反対意見が続出し、社員255人の58%にあたる149人の反対署名が集められた<ref>「新雑誌ぞくぞく登場の背景」『[[サンデー毎日]]』[[1969年]]3月16日号</ref>{{Sfn|竹内|2011|p=443}}。これは売れないからではなく、保守系の雑誌を刊行することへの反対である。これがきっかけとなり、親睦団体(社員会)しかなかった文藝春秋社に[[労働組合]](文藝春秋労働組合)が結成される{{Sfn|竹内|2011|p=443}}。このような社内の強い反発により、機関紙刊行は取りやめとなり、現状の形に落ち着いた{{Sfn|竹内|2011|p=444}}。
 
三島は自決直前の夏に「革命の哲学としての[[陽明学]]」を、田中編集長の立会いで口述筆記<ref>回想記に、白川浩司『オンリー・イエスタデイ1989 『諸君!』追想』(小学館、2011年)に回想がある。著者は1988年~1991年に編集長。</ref>、<ref>他に編集者の回想、仙頭寿顕『『諸君!』のための弁明 僕が文藝春秋でしたこと、考えたこと』(草思社、2019年)がある。</ref>し、三島唯一の論文掲載となった(『行動学入門』に収録、のち[[文春文庫]])。[[1971年]]2月号は「[[三島事件]]」の総特集号となった。
 
初期から中期は保守系論壇人としては小林秀雄、[[竹山道雄]]、[[田中美知太郎]]、[[福田恒存]]、[[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]]、[[高坂正堯]]、[[江藤淳]]、[[村松剛]]らが寄稿。のちに[[山本七平]]、[[渡部昇一]]、[[谷沢永一]]、[[佐伯彰一]]、[[野田宣雄]]、[[西尾幹二]]、[[平川祐弘]]らが常連となった。
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創刊時の田中美知太郎の『時代と私』から始まり、[[宮本常一]]や[[井上光貞]]・[[松田毅一]]などの著名な学者の回顧録を連載した。また1980年代には、作家[[辺見じゅん]]が[[今西錦司]]、[[谷川徹三]]、[[土屋文明]]、[[永井龍男]]といった当時健在だった[[明治]]生まれの作家・学者らへのインタビュー対談を掲載していた。のちに『初めて語ること―賢師歴談』として刊行された。
 
[[1980年]]1月号より開始した巻頭[[コラム]]「紳士と淑女」(筆者は[[徳岡孝夫]]最終号で明かされた)。また巻末コラムの[[山本夏彦]]「笑わぬでもなし」([[2002年]]に没する少し前までの約350回)も著名であった。[[1980年]]には1960年代初頭まで左派であった[[清水幾太郎]]が本誌上にて[[日本の核武装論|核武装]]論を展開して話題となる。清水の「核の選択―日本よ国家たれ」が掲載された1980年7月号は、当時の実売数は2万数千部だったが、この号は1万部も多い、3万2000部を売り切り{{Sfn|竹内|2012|p=304}}、編集部には記録破りの賛否両論の投書が届けられ、翌月号には投書特集が組まれた{{Sfn|竹内|2012|p=305}}。なお清水は回顧録『わが人生の断片』を連載した。清水が『諸君!』に登場するようになったのは、文藝春秋で『諸君』の創刊が決まったときに遡る。編集部員への配属が予定されていた東眞史は、「清水研究室」を訪問し、編集会議で清水を執筆者に加えることを提案したが池島信平と田中健五編集長は「バーカ。清水幾太郎が文春に書くわけないだろうが!」と言ったが、それは、清水がもともとは岩波文化人だったことによる{{Sfn|竹内|2012|p=293}}。しかし、東の熱意と新しい執筆場所を探していた清水の意向が合致し、清水は創刊号でインタビュー形式の「戦後史をどう見るか」で登場する{{Sfn|竹内|2012|p=294}}。
 
初代編集長の田中(のち社長・会長)の意向が強く反映した内容を踏襲してきた。『[[正論 (雑誌)|正論]]』・『[[Voice (雑誌)|Voice]]』・『[[WiLL (雑誌)|WiLL]]』などと共に保守系論壇誌であり、[[岩波書店]]の『[[世界 (雑誌)|世界]]』、[[朝日新聞社]]の『[[論座]]』(2008年休刊)などの左派系論壇誌と対をなしていた。そのため[[戦前]][[戦中]]日本([[大日本帝国]])を直視する立場をとっており[[中華人民共和国|中国]]や[[大韓民国|韓国]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]といった周辺諸国の[[ナショナリズム]]を警戒する論文を掲載していた。