「源義時」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
二重記載を削除。冗長な表現を改め文体を調整。依然として、辞書として適切ではない(「義時」の説明ではない)記載が多く、追加の調整を認めます。
義忠が義時の「すぐ上の兄」とは断言できない。また、子孫については関連項目で、義時の子孫ではない石川姓の氏族の説明は別項目で取り上げるのが適切と判断。
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== 河内源氏本拠地を相続 ==
父の八幡太郎義家が死去するとすぐ上の兄、[[源義忠|義忠]]が家督を相続し源氏の棟梁となる。兄、義忠が都に戻るのと入れ替わりに[[河内源氏]]の本拠地、[[河内国]]石川を守るようになると言われているが具体的な史料は確認できない。(長兄の[[源義宗|義宗]]は夭折。次兄の[[源義親|義親]]は乱を起こし討伐された。三兄の[[源義国|義国]]は関東で叔父の[[源義光|義光]]と合戦し勅勘を蒙り謹慎)。義忠の死後、義時は兄の跡をついで源氏の棟梁になることを望んだが果たされなかった。官職はなく、官位は六位であったということだけが伝わっている(後世になっていわれるようになったが当時の史料では確認できない)。また、陸奥五郎、または陸奥六郎と称したことがあるが、陸奥守であったわけではなく(史料的に確認できていない)、父の義家の陸奥守に由来した名乗りであるようである。
 
== 河内・石川源氏 ==
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[[治承・寿永の乱|治承の源平の戦い]]の際、都に近い河内国に八幡太郎義家以来の源氏の残存勢力のあることを危険視した平清盛によって攻撃された。源義基、源義兼らは、平家方の侍大将大夫判官[[飯富季貞]]、摂津判官[[平盛澄]]の軍と洛外や石川源氏の本拠地である河内国石川庄で抗戦するが、大勢を覆せず、一族の多くが討たれ、石川源氏の勢力は大きく衰退した。
 
この戦際に注目されるのは、平家方の大将が同じ源義家の子孫で、源義兼から見ると又従兄の子にあたると思われる源季貞であることであがいる。源季貞は父の代からの平家郎党であるということで平家方であったために、同族を討伐する大将になったともいえるが、これにも諸説がある。以下中で有力な説としてがある。
 
#源義時が源季貞の曾祖父にあたる[[源義忠]]の暗殺事件に荷担もしくは関係があったため
#当時、義忠流嫡流[[源義高 (左兵衛権佐)|源義高]]が従四位下左兵衛権佐となっており同時代の[[源為義]]よりも官位は高かった事、平氏政権下での河内守といった官職、受領関係に不明な事が多い事等から義忠流が引き続き河内守として勢力を持っていたとも考えられ、源氏の事は源氏で、河内国内の事件は源氏が対処する、という慣例に従っただけである。
 
この二つが有力である。
 
== 鎌倉時代の石川源氏 ==
河内国石川に拠った石川源氏は[[鎌倉時代]]に勢力を誇り、多くの寺院仏閣の創建や再建に努力した。しかし、石川源氏が勢力圏とした地域は、鎌倉末期より[[楠木氏]]が台頭した。
 
[[石川日出鶴丸]]を輩出した事で知られる越中石川氏の祖・[[石川義昌]]は義時の末裔であるとされる。
陸奥の[[石川昭光]]などの石川氏は別流で、清和源氏[[源頼親|頼親流]]([[大和源氏]])[[陸奥石川氏|石川氏族]]。
同じく、陸奥の[[石川高信]]の石川氏も清和源氏義光流([[甲斐源氏]])[[南部氏|南部氏族]]。
 
== 関連 ==