「源義時」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
二重記載を削除。冗長な表現を改め文体を調整。依然として、辞書として適切ではない(「義時」の説明ではない)記載が多く、追加の調整を認めます。 |
義忠が義時の「すぐ上の兄」とは断言できない。また、子孫については関連項目で、義時の子孫ではない石川姓の氏族の説明は別項目で取り上げるのが適切と判断。 |
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17行目:
== 河内源氏本拠地を相続 ==
父の八幡太郎義家が死去すると
== 河内・石川源氏 ==
24行目:
[[治承・寿永の乱|治承の源平の戦い]]の際、都に近い河内国に八幡太郎義家以来の源氏の残存勢力のあることを危険視した平清盛によって攻撃された。源義基、源義兼らは、平家方の侍大将大夫判官[[飯富季貞]]、摂津判官[[平盛澄]]の軍と洛外や石川源氏の本拠地である河内国石川庄で抗戦するが、大勢を覆せず、一族の多くが討たれ、石川源氏の勢力は大きく衰退した。
この戦
#源義時が源季貞の曾祖父にあたる[[源義忠]]の暗殺事件に荷担もしくは関係があったため
#当時、義忠流嫡流[[源義高 (左兵衛権佐)|源義高]]が従四位下左兵衛権佐となっており同時代の[[源為義]]よりも官位は高かった事、平氏政権下での河内守といった官職、受領関係に不明な事が多い事等から義忠流が引き続き河内守として勢力を持っていたとも考えられ、源氏の事は源氏で、河内国内の事件は源氏が対処する、という慣例に従っただけである。
== 鎌倉時代の石川源氏 ==
河内国石川に拠った石川源氏は[[鎌倉時代]]に勢力を誇り、多くの寺院仏閣の創建や再建に努力した。しかし、石川源氏が勢力圏とした地域は、鎌倉末期より[[楠木氏]]が台頭した。
== 関連 ==
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