「乙羽信子」の版間の差分

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愛称は「オカジ」で、これは本名の「加治(旧姓)」をもじったもの。1950年に東宝で『佐々木小次郎』の映画化が決定したとき、「兎禰」は[[山根寿子]]、「那美」は[[高峰秀子]]と決まったが、「まん」の配役がどうしても決まらなかった。監督の[[稲垣浩]]は宝塚乙女の中から[[宮城野由美子]]と乙羽の二人を候補に挙げたが、両者とも宝塚で重要なスタアであったため、東宝がいくら宝塚歌劇団と関連会社であっても簡単にまとまる話ではなかった。
 
そのうち、宝塚から「乙羽のほうが可能性があるから本人に会ってくれ」と通知があり、稲垣は乙羽に出かけた。行き、乙羽は稲垣とは初対面だというのに取りすましたところもなく笑顔で「映画に出る自信はありませんがどうぞよろしく。これからホンをよく読ませていただいて」と終始愛想が良かったので、稲垣も腹を決め、宣伝部も台本を持った乙羽の写真などを撮った。そのり、路に知り合いの通信記者から「オカジはどうでした」と話しかけられたので「決まりそうだ」と答えると「そんなはずはない、彼女は大映へ行くことに決まっている。契約も済んだはずです」と言われ、これには稲垣も大慌てとなった
 
間もなく乙羽の大映入りはでかでかと新聞に大きく報道され、大映は「百万ドルのエクボ」を売り文句に映画界に新しい花を咲かせたが、こういうケースは映画界ではよくあることなので(稲垣自身も宝塚乙女の映画界への引き抜きに何度か関わっている)、稲垣としては大きなショックはなかったという。稲垣はその7年後の1957年の東宝映画『大夫さんより 女体は哀しく』で乙羽と再会したが、「どうもそのせつは…」と、「百万ドルのエクボにかわりはなかった」という。稲垣は乙羽について「映画、テレビ、舞台と意欲的な彼女の仕事ぶりを眺めていると、その芸は教えられておぼえたものではなく、からだでおぼえたのだということが感じられる」、「最年少で宝塚に入ったのも、単なる少女のあこがれではなく、女優としての天分をそなえ持っていたからであろう」と語っている<ref>ここまで、[[稲垣浩]]『日本映画の若き日々』([[稲垣浩]]、毎日新聞社、中公文庫で再刊)より</ref>。
 
1990年実施の[[第39回衆議院議員総選挙]]では、[[森村誠一]]や[[丸木政臣]]、[[花沢徳衛]]らと共に[[日本共産党]]への支持を表明している<ref>1990年2月11日付 朝日新聞 20面</ref>。
 
新藤とは夫婦であっても、乙羽は「先生」と呼び、また新藤は「乙羽君」と呼び合っていた。『[[原爆の子]]』に出演した頃に恋仲になった時、新藤には既に妻がおり、忍ぶ間柄であった。しかし、新藤の前妻が亡くなった後の[[1978年]](昭和53年)に結ばれた2人を、前妻の子は祝福し迎えている。「いきなり子供達ができました」と、乙羽は喜んでいた。新藤の監督作品へは「午後の遺言状」まで全作出演しているが、新藤以外との仕事も多くこなし、テレビ・舞台と幅広く活躍。温和な母親役から凄味を感じさせる殺人者役まで善悪硬軟こなせる貴重な名脇役として人気を博した。