「信濃国」の版間の差分

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幕末になると、東海地方から南信濃に[[平田篤胤|平田]][[国学]]が移入され、俄かに[[勤皇]]思想が盛んになった。[[文久]]元年(1861年)の[[和宮親子内親王|和宮]]の中山道下向では松代藩、上田藩、高遠藩が乗輿警衛を、その他諸藩が沿道守衛を命じられた。[[元治]]元年(1864年)には[[天狗党の乱]]が関東から京へ向けて信濃国内を通行したが、実際に交戦したのは高島藩、松本藩のみで、それ以外の藩は天狗党に畏怖し通行を黙認した。同年、[[開国]]派の松代藩士[[佐久間象山]]は京都で[[尊王攘夷]]派に暗殺された。
 
[[戊辰戦争]]では外様の松代藩・須坂藩はいち早く[[倒幕]]を表明、その他の譜代諸藩は、当初日和見の態度をとる藩が多く、積極的な[[佐幕]]論は見えない中、次第に[[官軍]]に恭順していった。[[慶応]]4年([[1868年]])官軍より信濃諸藩に[[赤報隊]]の捕縛命令が下り、[[下諏訪宿]]で[[相楽総三]]らが処刑された。4月下旬、越後から進出した[[衝鋒隊]]が[[飯山城]]下を占領すると、信濃諸藩は[[東山道]]先鋒総督府の[[岩村精一郎]]の軍監に入り、連合してこれを撃退し、そのまま[[北越戦争]]、[[会津戦争]]に転戦した。[[賞典禄]]は松代藩3万石、須坂藩5000石、松本藩3000石、上田藩3000石、金禄は奥殿藩5000両、高遠藩2000両等であった。明治維新に前後して、折柄の贋金の流通による経済の混乱も相まって信濃各地で木曽騒動、[[上田騒動]]、会田騒動、川西騒動、須坂騒動、[[松代午札騒動]]などの[[世直し一揆]]が多発し、中でも最大規模の[[中野騒動]]では県庁舎が焼失し、県庁の長野移転の契機となった。
 
=== 近世以降の沿革 ===