「プーマ」の版間の差分

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[[1970 FIFAワールドカップ]]に先立って、アルミン・ダスラーとホルスト・ダスラーは「ペレ協定」と呼ばれる協定に調印した。これは[[ペレ]]との契約をめぐる争いが起きれば、金額の高騰に歯止めがきかなくなるのが明らかなため、彼にはアディダスとプーマ双方が関与しないとする取り決めだった{{sfn|スミット|2010|p=150}}。しかし、プーマの代理人ハンス・ヘニングセンが総額12万5000ドルと彼の名前を冠したシューズのロイヤリティという条件でペレと契約を結んだことにより、ペレ協定は破られた{{sfn|スミット|2010|p=151}}。ワールドカップ決勝戦の試合開始直前、ペレは審判に靴紐を結び直すための猶予を求め、それによって何百万人ものテレビ視聴者が画面に大写しになった彼の足元のプーマを見つめた{{sfn|スミット|2010|p=151}}。[[サッカーオランダ代表]]の[[ヨハン・クライフ]]とプーマが交わした契約書には「他のスポーツブランドを宣伝する行為は慎むこと」という条項があったため、[[オランダサッカー協会]]がアディダスと契約した後も、クライフはスリーストライプではなく2本線が袖に入ったシャツを着てプレーした{{sfn|スミット|2010|p=157}}。
 
=== 1970年-1980年===
1974年10月、創業者のルドルフ・ダスラーが死去。ルドルフの遺言状には、プーマの所有権は次男ゲルトに相続すると書かれていたが、法律上は遺言状より合資会社(KG)の定款が優先されるため、実際は長男アルミンがプーマ株式の6割、ゲルトが株式4割とその他の遺産を相続することになった{{sfn|スミット|2010|p=161-163}}。新CEOに就任したアルミンのもとプーマはその後約10年で売上を5倍に伸ばした{{sfn|スミット|2010|p=164}}。