「愛国行進曲」の版間の差分

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当時の評価は賛否両論あり、[[近衛秀麿]]が「ああいう選者の顔ぶれでああいう募集方法で絶対といっていい位、詩と曲とが本当に融合した国民が永遠に歌い得る『国民行進曲』などは出来るはずはない」(東京朝日新聞1937(昭和12)年10月22日)と述べたほど、一般募集の方法に批判的な意見が相次いだ。特に詩は時代に合わない表面的なものだけと厳しい意見が多かったが、[[瀬戸口藤吉|瀬戸口]]の曲には「あれに追随するものはない」([[橋本國彦]])というような高い評価が与えられた。
 
[[1937年]](昭和12年)に[[支那事変]]([[日中戦争]])が勃発したが、当時の軍人送迎などには、『赤い夕日』『陸軍の歌』などもっぱら[[日清戦争|日清]]・[[日露戦争|日露]]戦争の軍歌が歌われていた。新たに作曲された軍歌もあったが、[[古関裕而]]の『[[露営の歌]]』など少数をのぞ、国民のこころとらえる曲は少ないと見なされたのである。
 
[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])で[[アジア]]各地を占領した[[日本軍]]はこの歌を広めた。そのため戦後40年ほどまでは日本を代表する曲だと思っていた外国人が多かった。作家の[[阿川弘之]]は1966年(昭和41年)[[山本五十六]]の搭乗機の残骸を探しに[[ブーゲンビル島]]に行った際、ガイドの住民が「ミヨトウカイノ」と歌っていたことを『私のソロモン紀行』に記述している。[[パラオ]]では『パラオの夜明け』という替え歌になっている。また、[[インドネシア]]の独立記念行事では[[インドネシア独立戦争|独立戦争]]の関係者達によって歌われ、[[1994年]](平成6年)に日本の報道機関によって取材されている。[[フィリピン]]の大統領だった[[フェルディナンド・マルコス]]の妻[[イメルダ・マルコス]]は来日した際に[[香淳皇后]]とこの歌を一緒に歌った<ref>『[[週刊文春]]』1991年11月14日号219頁</ref>
 
また、歌詞を「見よ[[東條英機|東條]]の[[ハゲ|禿]]頭」または「見よ東京の関東焚(カントダキ)=関東煮、おでん」などに変えた[[パロディ]]も密かに流行したという。