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== 生涯 ==
[[永正]]9年([[1512年]])、筑前の[[国人]]領主である秋月氏14代当主・[[秋月種時]]の嫡男として誕生<ref>生年には異説もある。</ref>。[[享禄]]4年([[1531年]])、父の死去により家督を継いで15代当主となった
 
[[享禄]]4年([[1531年]])、父の死去により家督を継いで15代当主となった。
文種が家督を継承した頃は[[大内義隆]]に従属している。[[大内氏]]と[[大友氏]]との和睦に功績があったとされており、[[天文 (日本)|天文]]10年([[1541年]])には義隆の推挙を受けて、幕臣の1人にまで任じられている。
 
文種が家督を継承した頃は[[大内義隆]]に従属している。[[大内氏]]と[[大友氏]]との和睦に功績があったとされており、[[天文 (日本)|天文]]10年([[1541年]])には義隆の推挙を受けて、幕臣の1人にまで任じられている。また、嫡子が[[足利義晴]]から偏諱を受け、[[秋月晴種|晴種]]と名乗った
 
天文20年([[1551年]])、[[陶晴賢]]の謀反により大内義隆が自害すると([[大寧寺の変]])、[[大友義鎮|大友宗麟]]に属した。
 
[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])、大内氏が滅んで[[毛利氏]]の勢力が北九州にまで及んでくると、文種は[[毛利元就]]の調略に応じて大友氏に反旗を翻した。このため7月、宗麟は[[立花道雪]]と[[臼杵鑑速]]に2万の兵を預けて、文種討伐を命じる。文種は[[古処山城]]で徹底抗戦したが、衆寡敵せず、嫡男・[[秋月晴種|晴種]]と共に城中にて自刃した。しかし残りの子供達は家臣らに守られ、[[毛利氏]]の元に逃れるなどした。文種の死により、秋月氏は一時滅亡し、ほとんどの所領を失うこととなった。残った所領は家臣の深江氏が死守している。
 
== 脚注 ==