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{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=ロ人1224年頃__世界史}}
{{基礎情報 皇族・貴族
| 人名 = マルガリタ / マルギト
| 各国語表記 = Μαργαρίτα / Margit
| 家名・爵位 = 東ローマ皇后<br>モンフェッラート侯妃
| 画像 =
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| サイン =
}}
'''マルギト'''(Margit({{lang-hu-short|Margit}}, [[1175年]] - [[1223年]]以降)は、[[東ローマ帝国]]の[[ローマ皇帝|皇帝]][[イサキオス2世アンゲロス]]の[[皇后]]。父は[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー]]王[[ベーラ3世]]。[[ギリシア語]]名は'''マルガリタ''' (Μαργαρίτα)
 
== 生涯 ==
父の政略のため、東ローマ皇帝であったイサキオス2世と1185年に結婚した。2人の仲は良く、その間に彼女は2人の子供を出産している。しかし[[1195年]]、イサキオス2世の弟[[アレクシオス3世アンゲロス]]の[[クーデター]]で夫と共に廃された上、幽閉された。その8年後の[[1203年]]、[[アレクシオス4世アンゲロス]](イサキオス2世と先妻の息子)擁する[[十字軍]]に助け出された。しかし[[1204年]]、今度は[[アレクシオス5世ドゥーカス]]のクーデターにあい、夫は殺されてしまった。
 
その後、十字軍の[[モンフェッラート侯国|モンフェッラート侯]][[ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)|ボニファーチョ1世]]([[エルサレム王国|エルサレム]]王[[コンラート1世 (モンフェラート侯)|コンラド]]の弟)と再婚した。これも実はモンフェッラート侯の政略で、マルギトが東ローマ帝国の皇后であったという経歴を利用して、その権利によって[[ラテン帝国]]の皇位を狙ったのであるが、果たせず[[テッサロニケ|サロニカ]]王となった。そして彼も[[1209年]]に[[ブルガリア人]]と[[クマン族]]との戦いで[[戦死]]すると、先妻の息子[[グリエルモ6世 (モンフェッラート侯)|グリエルモ6世]]とマルギトの幼い王子[[デメトリオ・ディ・モンフェラート|デメトリオ]]との間に後継者争いが生じた。マルギトはラテン皇帝[[アンリ・ド・エノー]]の援助を受けて、デメトリオに王位を継がせることに成功した。その後、自ら息子を後見したが、1223年、[[エピロス専制公国|エピロス専制公]][[テオドロス1世コムネノス・ドゥーカス|テオドロス・ドゥーカス]]によってテッサロニキが包囲下に置かれると、彼女は故地[[ハンガリー王国|ハンガリー]]に逃亡した。テッサロニキの陥落と王国の滅亡は翌[[1224年]]のことである。
 
{{デフォルトソート:まるきと}}
[[Category:13世紀の女性]]
[[Category:アールパード家]]
[[Category:東ローマ皇后]]
[[Category:イタリア諸国の后妃]]
[[Category:アールパード家]]
[[Category:13世紀の女性]]
[[Category:1175年生]]
[[Category:13世紀没]]