「国民革命軍」の版間の差分

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師団は軍政上の基本単位でもあり、各師団は'''教導團'''と称される新兵教育部署を備えていたので、それぞれが独自に兵士の募集または強制徴募を行なって人数を揃えていた。前線へ向かう際はほとんどの場合、作戦上の基本単位である'''軍'''の下に編入されて行動した。軍は2個師団を動かし、それを支援する砲兵連隊('''砲兵團''')と工兵連隊('''特務團''')を追加されて実戦部隊としての戦力を完成させた。
 
兵員の確保は強制徴募と志願制で行なわれており、市内の溜まり場で健康そうな若者を見つけると強制的に入隊させるような兵隊狩りが横行していた。また、町区や村落に命じて一定数の男子を供出させていた。「良い鉄は釘にならず、良い人は兵隊にならない」の言葉通り、後者の志願制では食い詰め者やならず者ばかりが集まり、地方の部隊では匪賊の類がそのまま編入されてる事もあった。しかし国民党直轄下の[[南京市|南京]]、[[広州市|広州]]、[[武漢市|武漢]]では愛国心に燃える若者が多く得られて精鋭部隊の編制が可能となった。兵士への給与の支払いと食糧の支給は滞る事が多く、住民からの徴発と略奪行為が横行していた。暴虐行為も頻繁に起き、殺人も珍しくなかったと言われる。部隊編入時に支給された小銃を売却してしまう者もおり、次の日には手ぶらになっている兵士も時折見られたという。こうした規律の低さから兵士たちの戦意も低く、殆どの者が何時でも逃げ出せるように着替え用の私服(便衣)を隠し持っていた。彼らを信用していない指揮官たちは[[督戦隊]]を頻繁に組織して後方から監視させ、持ち場を離れる者を容赦なく射殺していた。同様の目的で兵士を入れた[[トーチカ]]に外から鍵を懸けたり、[[塹壕]]に配置した兵士を鎖で繋ぎ止めることも行なわれた。そのため、西洋の軍事家の多くは国民革命軍が全体として20世紀の軍隊というより19世紀を思い出させるものであるとの印象を持った<ref>p.5 http://www.history.army.mil/brochures/72-38/72-38.htm</ref>。
 
=== ドイツ式部隊 ===
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#'''国民政府軍事委員会'''
#'''戦區'''([[戦区]])-- 単数ないし複数の省を範囲にする[[軍管区]]である。複数の集團軍とその他を統括した。
#'''兵團'''(兵団)-- 戦區を更に分割したもの。1個以上の集團軍とその他を持った。
#'''集團軍'''(集団軍)-- 2個以上の方面軍を持つか、2個以上の軍とその他を持った。
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#'''班''' -- 分隊
 
国民革命軍が発足した1925年から1926年までは、'''路軍'''または'''軍'''が最大編制単位だった。[[蒋介石]]が[[北伐 (中国国民党)|第三次北伐]]を開始した1926年から、複数個の軍を持った'''集団軍'''が新設された。その下に置かれた'''方面軍'''は2個の軍の指揮を分担される集団軍の統率補助単位だった。'''團'''以上の編制単位は全軍中の通し番号が振られているが、方面軍は集団軍ごとに第一から始まっている。方面軍は1937年頃から徐々に編制されなくなった。路軍は小規模な集団軍として存在したが1937年9月に廃止された。その例として[[毛沢東]]の第八路軍(いわゆる[[八路軍]])は同時期に第十八集団軍に改称されている。
 
軍隊編制上の基本単位は'''師'''であり、各師が持つ教導團が兵員の募集または強制徴募を行なって独自に人数を揃える仕組みとなっていた。各師は通常2個の旅ナンバーと4個の團ナンバーを連番で軍中央から与えられており、師の全兵員は師長の裁量で分割された上で前述のナンバーを振られて旅と團が作られていた。ナンバーは全軍中で一意なものだった。團は連隊に相当するが、日本の様に各郷土ごとに組織されて下から師団を組み立てるものではなく、師を分割して上から組織される点で異なっていた。なお、[[国民革命軍ドイツ訓練師団|ドイツ式師団]]と砲兵や工兵および機甲部隊などの團は軍中央の下で計画的に組織された。
 
指揮官の称号は、戦区は司令長官、兵団は司令官、集団軍は総司令、方面軍は司令であり、当時は日本式に倣っていた。他は路軍長、軍長、師長、旅長、團長であった。
 
== 軍階序列 ==