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麻原は既にオウム神仙の会時代の[[1987年]]にはタントラ・ヴァジラヤーナや[[ポア (オウム真理教)|ポア]]といった殺人肯定の教えを説いていたとされる<ref group="web" name="nanzan"/>。さらに、[[阿含宗]]のスパイがいないか調査させるなど、後につながる行動が始まっていた<ref>降幡賢一『オウム法廷5』 p.65</ref>。
 
[[1988年]](昭和63年)、1988年(昭和63年)(33歳)、7月に莫大なお布施によりインドで[[カール・リンポチェ]]と会うことに成功する。リンポチェにはあまり褒めてもらえなかったが、この際に麻原はリンポチェからヴァジラヤーナの殺人肯定の教えを説法され大きな影響を受け、帰国後には「これからは、ヴァジラヤーナの掟だ!」と叫びなから[[新実智光]]ら男性幹部に暴力をふるっていた{{Sfn|門田|p=156}}。9月には[[オウム真理教在家信者死亡事件|在家信者死亡事件]]が発生、教団から死人を出す。麻原は「いよいよこれはヴァジラヤーナに入れというシヴァ神の示唆だな」と語った<ref group="web">[http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/817/005817_hanrei.pdf 平成7年刑(わ)894号 平成14年7月29日 東京地方裁判所](PDF)</ref>。この頃から[[ヨハネの黙示録]]解読に熱中し始める。同年[[10月28日]]、「当初、初めは、わたしはね、凡夫を救済するのがわたしの役割だろうと考えていた。しかし、近ごろわたしは心が少しずつ変わってきている。(略)動物化した、あるいは餓鬼化した、あるいは地獄化したこの人間社会というものの救済は不可能なのかもしれないなと。そして、じゃあどうしたらいいかというと、新しい種、つまり、今の人間よりも霊性のずっと高い種、これを残すことがわたしの役割なのかもしれないなと。」と説法した<ref group="web">広瀬健一「[http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/hirosesyuki.html オウム真理教元信徒 広瀬健一の手記]」 第二章 浄土真宗円光寺</ref>。
 
[[1989年]](平成元年)、[[オウム真理教男性信者殺害事件|男性信者殺害事件]]、[[坂本堤弁護士一家殺害事件]]が発生。坂本弁護士事件では当初からオウム真理教の関与が疑われた。