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典拠追加。南九州住民が「隼人」と呼ばれたのは120年間程度だったとする指摘は、原口耕一郎氏の2018年論文以前に永山修一氏が2009年著書にて指摘している。
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『[[肥前国風土記]]』によると、[[五島列島]]にも隼人に似た人々がいたという。また『[[新唐書]]』によると「邪古・波邪・多尼の三小王」がいたというが、波邪は隼人のことであろうとされている{{Sfn|門脇|森|1995|pp=183-184|ps=(pp.184に波邪の国は隼人と解し、邪古は「ヤク」であり、[[屋久島]]を指し、多尼は「タネ」であり、[[種子島]]であると述べている。)}}。
 
近年の博士論文<ref name="原口" />によると、[[9世紀]]初頭以降、[[南九州]]の住民を「隼人」と呼称する例は、史料上ひとつもみられなくなること確認されている。よって南九州の人々が隼人と呼ばれたのはわずか百二十120年間ほどのことにすぎないことが指摘されている{{Sfn|永山|2009|pp=240}}<ref name="原口" />。
 
その南九州の範囲であるが、熊本県域や宮崎県域、南西諸島の人々が隼人とされた例もまた史料上ひとつも確認されず、鹿児島県本土域の人々のみが隼人であったと考えられる<ref name="原口" />。ただし、鹿児島県本土域においても住民が隼人とはされていなかったであろう地域も想定されている<ref name="原口" />。