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光復後、朝鮮は[[北緯38度]]以北(北朝鮮)をソ連軍に、以南(南朝鮮)を[[アメリカ軍]]にそれぞれ占領された。米軍司令部は[[9月7日]]に朝鮮における軍政([[占領統治]])実施を宣言し、[[朝鮮独立運動|独立運動家]]らが自発的に樹立した[[朝鮮人民共和国]]や[[大韓民国臨時政府]]の[[政府承認]]を否定した<ref name="閔炳老40">[http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/document/2003/2/20030204.pdf 閔炳老著『韓国の憲法事情 諸外国の憲法事情3』(国立国会図書館調査及び立法考査局)] p40</ref>。[[9月9日]]に[[アメリカ軍|米軍]]は[[朝鮮総督府]]から降伏文書の署名を受け<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/misc/2009/08/17/9000000000AJP20090817002700882.HTML 今日の歴史(9月9日)] [[聯合ニュース]] 2009/09/09 </ref>、南朝鮮では新設された[[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁]]が朝鮮総督府の統治機構を一部復活させて直接統治を実施した<ref>[[田中恒夫]]『図説 朝鮮戦争』河出書房新社〈ふくろうの本〉、東京、2011年4月30日、初版発行、5-7頁。</ref>。
 
米軍軍政下の朝鮮半島南部にはいくつかの政治勢力が存在した<ref name="kokusai16">{{Cite book |和書 |author=木宮正史 |title=国際政治のなかの韓国現代史|page=16|publisher=山川出版社|year=2012}}</ref>。このうち[[李承晩]]を中心とする右派のグループは米国と最も近い関係にあった<ref name="kokusai16" />。しかし、李承晩は米国本国との直接のパイプを見せながら米軍軍政に対して接していたため軍政の当局からは厄介な存在として扱われていた<ref name="kokusai16" />。ただ李承晩は長年本国を離れていたため国内に組織的な支持勢力をもっていないという弱点もあった<ref name="kokusai16" />。右派の政治勢力には李承晩のグループとともに大韓民国臨時政府の中心となっていた[[金九]]のグループがあった<ref name="kokusai16" />。さらに右派には[[宋鎮禹]]や[[金性洙]]など[[韓国民主党]](韓民党)を結成した政治勢力がおり韓民党は財政的基盤では他よりも優位にあった<ref name="kokusai17">{{Cite book |和書 |author=木宮正史 |title=国際政治のなかの韓国現代史|page=17|publisher=山川出版社|year=2012}}</ref>。一方、左派の政治勢力には[[朴憲永]]のグループがあった(朴憲永は後に北朝鮮へ越北)<ref name="kokusai17" />。このほか[[呂運亨]]を中心とする中道左派のグループや[[金奎植]]を中心とする中道派のグループが存在した<ref name="kokusai17" />。
 
第二次大戦後の朝鮮半島南部では左右対立が激しく、無償農地改革を主張していた左派勢力のほうが優勢だった<ref>{{Cite book |和書 |author=木宮正史 |title=国際政治のなかの韓国現代史|page=18-19|publisher=山川出版社|year=2012}}</ref>。しかしソ連が提案した朝鮮半島の国際信託統治案をめぐって左派が「賛託」と呼ばれる賛成派につき、右派が「反託」と呼ばれる反対派についたことを契機に状況は変化した<ref name="kokusai19">{{Cite book |和書 |author=木宮正史 |title=国際政治のなかの韓国現代史|page=17|publisher=山川出版社|year=2012}}</ref>。連合国は1945年12月の[[モスクワ三国外相会議]]にて朝鮮半島の[[信託統治]]を協定し、翌[[1946年]]1月から[[京城府]]で信託統治実施に向けた米ソ共同委員会を開催した。だが、共同委員会は信託統治受け入れに反対する李承晩、金九ら大韓民国臨時政府系の[[右派]]の扱いを巡って紛糾し、米ソ対立から[[1947年]]7月に決裂した<ref name="閔炳老40"/>。
 
アメリカは朝鮮問題を[[国際連合]]に持ち込み、国連は1947年[[11月14日]]に国連監視下で南北朝鮮総選挙と統一政府樹立を行うことを決定した。翌[[1948年]]1月に国連は国連朝鮮委員団(UNTCOK)を朝鮮へ派遣し、総選挙実施の可能性調査を行なった。ソ連がUNTCOKの入北を拒否した為、アメリカ主導の国連は[[2月26日]]にUNTCOKが活動可能な南朝鮮単独での総選挙の実施を決定、金九、金奎植ら大韓民国臨時政府重鎮や[[北朝鮮人民委員会]]による南部単独での総選挙反対を押し切って[[5月10日]]に[[初代総選挙 (大韓民国)|南部単独総選挙]]を実施した。