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*[[出羽錦忠雄|出羽錦]]の著書では「ある年の岡山巡業で飛付五人抜きを行った際に参加していた土着のヤクザが何度負かされてもしぶとく挑戦を続けるため[[泉州山久義]]<ref>1940年代に活躍した春日野部屋の元西十両2枚目。引退後一時期年寄千田川を襲名した。</ref>が手厳しく土俵に叩き付けたが、これが原因となって見物席の仲間が怒り出し大乱闘になった。乱闘が収まってからヤクザが七、八人で安藝ノ海の支度部屋に『いちばん先に問題をおこした若い者を引き渡せ』と詰め寄ったが、安藝ノ海は『若い者は渡すことはできない。だが呼んであやまらすだけでいいならそうしよう。しかし指一本ふれたら承知しないぞ』と返答し、押し問答のすえ向こうが折れて謝ることで話がついた」という逸話が取り扱われている。安藝ノ海の気の強さを表す逸話である<ref>元出羽錦・田子ノ浦忠雄の名義『土俵の砂が知っている~涙と笑い・二十五年の生活記録~』一水社</ref>。
 
*[[作家]]の[[小島貞二]]は、力士時代に安藝ノ海の付き人を務めていた。風呂上がりの際、安藝ノ海に体の拭き方が悪いといきなり殴られたことなどを明かし、人間的には心酔できない部分があったという。また安藝ノ海の廃業後小島が出羽海部屋に遊びに来た際、歴代の横綱の額が並ぶ中で、安藝ノ海のものだけが外されていた(不行跡に立腹した出羽海が外させていた)ことも証言している。さらに、晩年の不遇の中で、現役時代の双葉山戦に関する座談会やインタビューには必ず出席し、生き生きと目を輝かせてその模様を語り、追憶の世界に生きる安藝ノ海の姿に対しては「何とも形容しがたかった」と振り返っている<ref>[[工藤美代子]]『一人さみしき双葉山』1991年、[[ちくま文庫]]、175-177頁。</ref>。
 
*相撲評論家の[[杉山桂四郎]]は、角界を離れた後の安藝ノ海への取材を3回行った経験から、「頭の回転が速く、話をしていて気持ちがよかった」と回想している。その頭脳明晰ぶりが、親方時代から始めた料理店経営などにも発揮された。しかし反面、岳父・出羽海との確執を生んだのは、自身の離婚問題の他に、親方たちの[[労働組合]]に当たる「明朗会」という組織を運営して印象を悪くしたということもあり、この点で「才人でやり手すぎて、相撲社会の水と合わなかったのではないか」と分析している<ref name="kokony">『古今横綱大事典』1986年、[[読売新聞社]]、120頁。 </ref>。
 
== エピソード ==