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== 歴史・沿革 ==
[[天文 (日本)|天文]]23年([[1554年]])に竣工する。小諸城主は武田家の親族衆である[[武田信豊 (甲斐武田氏)|武田信豊]]であるとする説があるが、[[黒田基樹]]は信豊が小諸城主であったことを示す確実な記録はないことを指摘している<ref>[[黒田基樹]]「親族衆武田信豊の研究」『甲斐路 No.61』山梨郷土研究会、1987年</ref>。[[武田勝頼|勝頼]]期には御一門衆の[[下曾根浄喜]]が城代を務めており、天正10年([[1582年]])3月の織田・徳川連合軍の甲斐侵攻に際しては小諸城に逃れてきた信豊を浄喜が打ち取り首を[[織田信長]]に進上したが、浄喜も誅殺されたという。
 
武田氏が滅んだ後に上野国と信濃佐久郡・小県郡は織田家臣の[[滝川一益]]が領し、城代は[[道家正栄]]が務める<ref>平山優『天正壬午の乱』、p.95</ref>。天正10年6月2日の[[本能寺の変]]により相模国の[[後北条氏]]が上野へ侵攻し、6月19日に一益は後北条氏との[[神流川の戦い]]で敗退する<ref>平山優『天正壬午の乱』、pp.94 - 95</ref>。敗走した一益は[[箕輪城]]([[群馬県]][[高崎市]]箕郷町)を経て碓氷峠を越え、6月21日に小諸城へ入城する<ref>平山優『天正壬午の乱』、p.95</ref>。6月21日には佐久郡の国衆・[[依田信蕃]](よだのぶしげ)が小諸城において一益と面会し、一益は木曽郡の[[木曾義昌]]とも交渉し、6月27日に小諸城を退去して佐久・木曽両郡を通過して本国の伊勢国長島へ帰還した<ref>平山優『天正壬午の乱』、pp.96 - 97</ref>。これにより小諸城主は依田信蕃となる。