「沖縄戦」の版間の差分

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アメリカ軍は通常、午前中に進撃して、午後から陣地を構築して、夜間は陣地に籠り日本軍の夜襲を警戒するというスケジュールであったが、第77師団は少しでも前進速度を上げる為に夜間攻撃を強行し、日本軍と激しい白兵戦を演じている<ref name="hokama365" />。第307歩兵連隊は日本軍の重要拠点石嶺丘陵の陣地に夜襲をかけ、頂上から日本軍の洞窟陣地を攻撃し、就寝していた日本兵多数を殺傷したが、その後日本軍の激しい反撃を浴び、3日間山頂に孤立し、救出された時には夜間攻撃に参加した204名の内156名が死傷していた<ref>[[#外間訳|米国陸軍省(1997年)]]、372頁。</ref>。
 
石嶺丘陵の内でもっとも頑強な陣地は、「チョコレート・ドロップ」山{{Refnest|group="注"|その形状から、皿にもったチョコレートドロップに見える事から、アメリカ兵にチョコレート・ドロップという名付けられた。}}(日本軍呼称:西部130高地)であったが、チョコレート・ドロップを攻撃してきたアメリカ軍第77師団の第306歩兵連隊は、激しい砲火で歩兵の死傷も増大し、死傷者は471名にも上ったことから、第307歩兵連隊と交代させられることになった<ref>[[#外間訳|米国陸軍省(1997年)]]377頁</ref>。チョコ・ドロップ日本軍攻防戦で戦車第27連隊が奮戦しており、同連隊は総攻撃で殆ど戦車を失ってはいたが、残った6輌の戦車はすべて車体を埋めてトーチカとして使用した。戦車第27連隊は機動部隊的反撃戦闘を想定した特殊な編成で、戦車連隊ながら重機関銃や速射砲を装備した歩兵中隊や[[九〇式野砲]]を装備した砲兵中隊配備されていたため<ref>{{Harvnb|加登川|1974|p=208}}</ref>、速射砲や野砲により攻撃してきたM4戦車を次々と撃破、擱座させ、その数は10-20輌にも上った。攻撃してきたアメリカ軍は多数の死傷者何度も出して撃退されて、戦車第27連隊はアメリカ軍の残ていっが、最後[[バズーカ]]や重機関銃など多数の兵器を鹵獲した。戦車第27連隊洞窟沖縄戦開始よりこの攻防戦までに敵戦車30輌封鎖撃破、敵兵員2,200人を死傷せたと記録し「ブロートーチ(溶接バーナー)いるが、5月26日までにすべての戦車を失ない、27日未明には連隊長村上乙中佐も戦死して、他の日本軍部隊栓抜き撤退した<ref>アジア歴史センター「沖縄作戦 戦車第27連隊資料 昭和20年3月23日~昭和20年6月21日で制圧された」</ref>
 
最初に首里戦線の突破口を開いたのは一番端を進んでいた陸軍第96師団であった。第24軍団長[[ジョン・リード・ホッジ]]少将は、首里により近い高地を攻撃し、一気に首里に近づく作戦を主張していたが、第96師団師団長ブラッドリー少将が地形を偵察の上で、より高いコニカルヒル(運玉森)の攻略が優先させた方がよいという意見であった<ref name="hokama383">[[#外間訳|米国陸軍省(1997年)]]、383頁。</ref>。
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* {{Cite book|和書|author=[[一ノ瀬俊也]]|title=日本軍と日本兵 米軍報告書は語る |publisher=講談社|date=2014|isbn=978-4062882439|ref={{sfnRef|一ノ瀬俊也 『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』}} }}
* {{Cite book |和書 |editor=[[学研ホールディングス|学習研究社]] 編 |year=2005 |title=沖縄決戦―太平洋戦争最後の激戦と沖縄県民の戦い (〈歴史群像〉太平洋戦史シリーズ (49)) |publisher=学研パブリッシング |isbn=978-4056038927|ref={{SfnRef|太平洋戦史シリーズ㊾|2005}} }}
* {{Cite book |和書 |author=加登川幸太郎 |title=帝国陸軍機甲部隊 |date=1974年 |publisher=白金書房 |asin=B000J9FY44 |ref={{SfnRef|加登川|1974}} }}
=== 伝記 ===
* {{cite book |和書 |asin=B000J8YJXC |title=沖縄軍司令官牛島満伝 |author=牛島満伝刊行委員会 |year=1972 |publisher=春苑堂書店 |ref={{sfnRef|牛島満伝刊行委員会|1972}} }}