削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: ビジュアルエディター モバイル編集 モバイルウェブ編集
23行目:
 
== 概要 ==
主に[[1960年代]]に活動した世界的に最も有名な[[ロック (音楽)|ロック]]バンド。ジョン・レノンがバンド「[[クオリーメン]]」を1957年に結成して「ザ・ビートルズ」と1960年に改名して[[1962年]]10月5日(金)にレコード[[デビュー]] <ref group="注釈">英国の過半数を占めるブルーカラー労働者は給料日が毎週金曜日なのでイギリスにおけるレコード発売日は基本的に金曜日。</ref>。[[1970年]]4月10日(金)に事実上解散した。"Fab Four"<ref group="注釈">"ファブ・フォー"と読む。FabはFabulousの略。「素晴らしい4人」あるいは「いかした4人組」という意味。同名の'''[[:en:The Fab Four (tribute)|The Fab Four]]'''、そしてこれをもじった'''[[:en:The Fab Faux|The Fab Faux]]'''という[[トリビュートバンド]]も存在する。また、[[2012年ロンドンオリンピックの体操競技]]の女子団体総合で金メダルを獲得したアメリカ代表選手(5人)が「The Fab Five」と呼ばれている。</ref>という愛称もある<ref>『僕はビートルズ』第1巻・巻末に記載されている宮永正隆の解説。</ref>。
 
活動期間内に母国イギリスで[[#オリジナルアルバム|12作]]<ref group="注釈">[[マジカル・ミステリー・ツアー]]を当初EP2枚組として発売。詳細は当該作品を参照。</ref>のオリジナル・アルバムを発売し、その内11作が[[全英アルバムチャート]]で週間第1位を獲得した。11作の週間第1位の合計獲得数は162週<ref group="注釈">[[:en:List of number-one albums from the 1960s (UK)|List of number-one albums from the 1960s (UK)]]および[[:en:List of number-one albums from the 1970s (UK)|List of number-one albums from the 1970s (UK)]]を参照。</ref>。年間売り上げ最高アルバム4作<ref group="注釈">[[:en:List of best-selling albums by year (UK)|List of best-selling albums by year (UK)]]を参照。</ref>と第1作『[[プリーズ・プリーズ・ミー (アルバム)|プリーズ・プリーズ・ミー]]』による連続30週第1位<ref name="album1" group="注釈">[[:en:List of number-one albums from the 1960s (UK)|List of number-one albums from the 1960s (UK)]]を参照。</ref>はいずれも1960年代の最高数<ref group="注釈">ただし、通算1位獲得数では映画『[[サウンド・オブ・ミュージック]]』のサウンドトラックの70週と『南太平洋([[:en:South Pacific (film)|South Pacific]])』の[[サウンドトラック]]の44週に次ぐ3位。なお『南太平洋』のサウンドトラックは1958年から1959年にかけて第1位を70週間連続獲得しており、全英アルバムチャート連続一位獲得数の歴代1位となっている。詳細は[[:en:List of number-one albums from the 1950s (UK)|List of number-one albums from the 1950s (UK)]]を参照。</ref>。シングルは[[#オリジナルシングル|22作]]<ref group="注釈">バンド活動期間である1962年10月の「ラヴ・ミー・ドゥ」から1970年3月の「レット・イット・ビー」まで。</ref>発売し、その内17作が第1位を獲得。アメリカなど世界各国においても高い莫大な販売数を記録し、全世界での総レコード・カセット・CD・ダウンロード・ストリーミング等の売上総数は610億枚を超えており<ref>{{Cite news|title=From Fab Four to fabulously rich|url=https://www.bbc.com/news/business-19800654|date=2012-10-04|accessdate=2019-01-31|language=en-GB|first=Russell|last=Hotten}}</ref><ref>{{Cite news|title=From Fab Four to fabulously rich|url=https://www.bbc.com/news/business-19800654|date=2012-10-04|accessdate=2019-01-31|language=en-GB|first=Russell|last=Hotten}}</ref>、[[ギネス世界記録|ギネス・ワールド・レコーズ]]に'''最も成功したグループアーティスト'''と認定されている。<br>1965年10月26日に女王[[エリザベス2世]]から[[大英帝国勲章|MBE勲章]]を授与されている<ref>[[ザ・ビートルズ・アンソロジー]] 日本語版 pp.181-184</ref>。[[1988年]]に[[ロックの殿堂]]入り。活動前期においては[[アイドル]]として「[[ビートルマニア]]」と称されるファンを獲得。後期には『[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]』や『[[アビイ・ロード]]』などの名盤と言われるような作品を発表しより音楽的な面から高く評価されており、解散から数十年が経過した現在でも、映画作品や記念盤が発表されるなど世界中で根強い人気を誇っている。
 
=== バンド名の由来 ===
118行目:
8月、アラン・ウィリアムス<ref group="注釈">初期のビートルズが出演していたリヴァプールのクラブ「ジャカランダ」のオーナー。リヴァプールのバンドのハンブルク巡業を手がける興行主でもあった。</ref>を通じて[[西ドイツ]]のハンブルクでの仕事が入ったが、5人編成のバンドを希望してきたため、新たなドラマーが必要となる。この時、シルヴァー・ビートルズが出演していたカスバ・クラブの経営者の息子[[ピート・ベスト]]がドラムスをやっていたので、メンバーとして誘い入れる。この編成で最初のハンブルク巡業に向かい「インドラ」というクラブで毎日6〜8時間の演奏を行う。当初はおとなしい演奏に終始したため評判が悪かったが、マネージャーのアドバイスもあってショー・アップを心がけ、長時間のステージで演奏も上達した事により、次第に人気を獲得していった<ref>ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.47</ref>。
 
1か月後「カイザーケラー」に移動。「デリー&ザ・シニアーズ」や、リンゴ・スターがドラムスを務める「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」と交代で出演する事になり、この時にリンゴと知己が生まれる。またこの頃、ピートがステージを休むことが数回あったため、リンゴが代役としてビートルズでドラムスを叩く機会があった。さらに、この頃アストリット(アストリッド)・キルヒヘル([[:en:Astrid Kirchherr|en]])<ref group="注釈">写真家。学生時代、ビートルズのハンブルク巡業中に友人となり、数々の写真を撮影。ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.58によれば、後にビートルカットと呼ばれる垂れた髪型の提案者であり、アルバム『[[ウィズ・ザ・ビートルズ]]』のジャケットのアイディアの元となった写真の撮影者でもある(ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.107。ただし、ジャケットの写真そのものはロバート・フリーマンが撮影している)。また、生前のサトクリフと恋愛関係にあり、映画『[[バック・ビート]]』ではヒロインとして描かれている。カナ表記は、ザ・ビートルズ・アンソロジー(日本語版)では本文(p.52その他)で「アストリット」、p.358のCREDITでは「アストリッド」と、両方の表記が存在する。</ref>が友人とともに客として店に来るようになり、程なくスチュアークリフと恋仲となる。
 
写真家を目指していたアストリットによって、この頃のビートルズの写真が撮影され、それが後に『[[ザ・ビートルズ・アンソロジー]]』などの文献に収録された。同時期にアストリットの友人で、後にイラストレーター、ミュージシャンとしてメンバーと関わる[[クラウス・フォアマン]]とも親交を結ぶ。ハンブルクでクラブ演奏を始めて3か月後、カイザーケラーより格上の「{{仮リンク|ザ・トップテン・クラブ|en|The Top Ten Club}}」からの出演依頼が来たのと時期を同じくして、ジョージが満17歳で就労年齢制限に抵触している事が発覚して強制送還となり、さらに宿舎にしている映画館の出火を理由にポールとピートも強制送還となり、残されたジョンも自力で帰国。スチュアートだけはアストリットに援助されしばらくハンブルクに滞在した。
125行目:
[[1961年]]1月、ハンブルクでの失敗でバンド活動を停止していた所にアラン・ウィリアムスからクラブDJのボブ・ウーラーを紹介され、オーディションの上でリヴァプールの[[キャヴァーン・クラブ]]にレギュラー出演するようになる。またキャヴァーンへのメンバーと楽器を搬送するローディー役として[[ニール・アスピノール]]<ref group="注釈">元々はポールとリヴァプール・インスティチュートの同級生で、1学年下のジョージとも友人だった。またピート・ベストの友人でもあり、ベスト家に間借りしていた。その縁でバン(車)を持っていた事からビートルズの楽器を運ぶ為に雇われ、デビュー後も引き続きロードマネージャーとしてビートルズの身の回りの世話をする事になる。</ref>が、続いて[[マル・エヴァンズ]] <ref group="注釈">ビートルズが出演していたキャバーン・クラブのドアマンとして働いていたが、アスピノール1人では仕事が大変なので2人目のロードマネージャーとして雇われ、アスピノール同様デビュー前から楽器のセッティングなどをはじめビートルズの身の回りの世話をしていた。ビートルズ解散後もジョン、ジョージと関わっていたが1976年に死去。</ref>が雇われた。
 
同年4月、2度目のハンブルク巡業を開始。前回、出演依頼があったザ・トップテン・クラブで演奏するようになる。このハンブルク巡業では初めてレコード会社によるレコーディングも実現した。また、再会したアストリットと一緒にプールに行った際、メンバーの髪が前に垂れている状態を見て気に入ったアストリットは、垂れたままの髪型にする事を提案。(スチュアートがマッシュルームカットにした際、ジョンがそれを見て大笑いしたが、まもなくジョンらも同じ髪型にしたという逸話がある。)ピート以外の4人がその垂れた髪型を使うようになり、それは後に「{{仮リンク|ビートルカット|en|Cultural impact of the Beatles#Haircut}}」と呼ばれるようになる<ref>ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.58</ref>。
 
=== 4人のビートルズ誕生 ===
146行目:
この曲のヒットにより英国で一躍人気グループになり、4月11日にリリースされた3曲目のシングル「[[フロム・ミー・トゥ・ユー]]」ではミュージック・ウィーク誌で1963年5月2日付けから6月19日付けまで7週連続1位となる<ref>[[ザ・ビートルズ1]]のジャケットの記述。</ref>。このフロム・ミー・トゥ・ユー以降は「[[シー・ラヴズ・ユー]](8月23日発売/1位6週)」、「[[抱きしめたい]](11月29日発売/1位5週)」などとシングルが連続して1位を獲得した<ref name="single1">[[:en:List of number-one singles from the 1960s (UK)|List of number-one singles from the 1960s (UK)]]を参照。</ref>。
 
アルバムは1963年4月26日に英国でのデビュー・アルバム『[[プリーズ・プリーズ・ミー (アルバム)|プリーズ・プリーズ・ミー]]』を発売し、5月11日付けでチャート第1位となり、その後、連続30週間、第1位が続いた<ref name="album1" group="注釈"/>。連続第1位が続いている中、1963年11月22日にセカンド・アルバム『[[ウィズ・ザ・ビートルズ]]』を発売し、12月7日に『プリーズ・プリーズ・ミー』を押しのけて第1位を獲得。1964年5月まで21週間連続1位になる<ref name="album1" group="注釈"/>。ビートルズはこの2枚のアルバムで51週間、ほぼ1年に渡りイギリスのアルバムチャートの第1位を占有していた。10月13日、当時の人気テレビ番組「{{仮リンク|サンデイ・ナイト・アット・ザ・ロンドン・パラディアム|en|Sunday Night at the London Palladium}}」に出演。およそ1500万人<ref name="compleat"/>がビートルズの演奏を視聴した。メンバーの発言<ref>ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.102-104</ref>によれば、これによってビートルズはイギリスでの人気を決定的なものとし、さらに11月4日にはロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ・シアターで開催されたロイヤル・コマンド・パフォーマンス(王室御前コンサート)に出演している<ref group="注釈">このステージでの最後の曲「[[ツイスト・アンド・シャウト]]」の直前にジョン・レノンが「安い席の人々は拍手を。残りの人々は宝石をガラガラ鳴らしてください」と観客に言っている。</ref>。同じ頃、[[ビートルマニア]]と称されるファンの一部の行動が社会問題化し始める(詳細は[[#批判と公的な抑圧]]を参照)。
 
=== 世界進出 ===
[[ファイル:The Beatles in America.JPG|thumb|230px|1964年2月7日、アメリカに上陸]]
[[File:Beatles with Ed Sullivan.jpg|thumb|230px|1964年2月9日、エド・サリヴァン・ショーに出演]]
しかしこの頃、アメリカではまだ大きなヒットを出せていなかった。新曲が出来るたびに、ジョージ・マーティンはアメリカ合衆国側でEMIレコードを販売している[[キャピトル・レコード]]にアメリカでの販売を要請した<ref>ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.110</ref>がキャピトルは拒否。その為[[ヴィージェイ・レコード]]や{{仮リンク|スワン・レコード|en|Swan Records}}などEMIが英国での配給権を取得している小さなレーベルと契約してレコードを販売したが、ポールの発言<ref>ビデオ版[[ザ・ビートルズ・アンソロジー]]のインタビューのコメント。</ref>などによれば、レコード会社が小さい事もあり、大規模な販売は実現しなかった。
 
その後「[[ライフ (雑誌)|ライフ]]誌」や「[[ニューズウィーク]]誌」がビートルズを記事にし、[[ラジオ]]の[[ディスク・ジョッキー]]がビートルズのレコードをかけ始めると、ビートルズはアメリカでも次第に知られる様になり、キャピトルの方から「レコード販売させて欲しい」と要請して来た<ref>ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.114-115</ref>。1964年1月に[[フランス]]公演を行う。その最中にアメリカで「抱きしめたい」(キャピトルで発売した初のシングル)がシングルチャート1位になった<ref group="注釈">ただし、ビルボードで日付上で1位になったのは2月1日。[http://www.billboard.com/charts/hot-100/1964-02-01 ビルボードHOT100・1964年2月1日付]を参照。</ref>。
 
[[ファイル:Paul, George & John.png|thumb|230px|1964年6月,オランダのテレビ番組で]]
2月にグループとして初めて渡米し、9日に[[CBS]]の「[[エド・サリヴァン・ショー]]」に出演。ポールの発言によれば視聴者数は7300万人<ref>ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.119</ref>となった。11日に[[ワシントン・コロシアム]]で初のアメリカ公演を行う。[[カーネギー・ホール]]で2回目の公演を行った後、16日に[[マイアミ]]のドービルホテルで2回目のエド・サリヴァン・ショーに出演。この番組の冒頭で司会のサリヴァンは、ビートルズが初出演した9日の放送がアメリカのテレビ史上最高視聴率をあげたとコメントしている<ref name="videoan">ビデオ版[[ザ・ビートルズ・アンソロジー]]の記録映像より。</ref>。4月4日、アメリカでチャート上位1位から5位までを独占するという歴史的な偉業を成し遂げる<ref>[http://www.billboard.com/charts/hot-100/1964-04-04 ビルボードHOT100・1964年4月4日付]</ref><ref>ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.139</ref><ref name="compleat"/>。(外国人アーティストがアメリカのチャートで上位に入ることすら多くはなかった。)
 
6月からはデンマーク、オランダ、香港、オーストラリア、ニュージーランドを回る世界ツアーが開催されるが、リンゴが[[扁桃腺]]炎に患って入院し、代役として{{仮リンク|ジミー・ニコル|en|Jimmie Nicol}}が起用される。その後回復したリンゴはオーストラリアで合流。[[アデレード]]の{{仮リンク|タウン・ホール|en|Adelaide Town Hall}}での公演の際は、集まった30万人から歓迎を受けている<ref>ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.140</ref><ref>Vintage Adelaide. pp.70-71</ref>。7月6日、イギリスで[[リチャード・レスター]]監督<ref group="注釈">本作以降も『[[ヘルプ!4人はアイドル]]』の監督を担当。『[[ジョン・レノンの 僕の戦争]]』では監督に加えてプロデューサーも兼任し、1991年には『[[ゲット・バック]]』の監督を担当している。</ref>による映画『[[ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! (映画)|ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!]]』が公開。10日に[[ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! (アルバム)|同名映画のサウンドトラックアルバム]]を発売し、『[[ウィズ・ザ・ビートルズ]]』を抜いて12週間1位を保持していた[[ローリング・ストーンズ]]の[[ザ・ローリング・ストーンズ (アルバム)|ファーストアルバム]]を押しのけて7月25日に第1位になり、そこから21週間連続1位を維持した。
 
この後、1966年の末まで、イギリスのアルバムチャートはビートルズとローリング・ストーンズが1位争いを繰り広げ、それ以外では[[ボブ・ディラン]]と『[[サウンド・オブ・ミュージック (映画)|サウンド・オブ・ミュージック]]』のサウンドトラックの2者のみがチャート争いに参加するという構図になった<ref name="album1" group="注釈"/>。またアメリカのビルボードにおいても、アメリカ編集盤『[[ミート・ザ・ビートルズ|Meet The Beatles!]]』(11週連続)、『[[ザ・ビートルズ・セカンド・アルバム|The Beatles' Second Album]]』(5週連続)、『[[ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! (アルバム)|ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!]]』(14週連続)の3作が1位を獲得している。「抱きしめたい」のシングル盤は世界で1200万枚以上を売り上げ、歴代トップクラスのセールスを記録した。アメリカでは、次作のシングル「[[キャント・バイ・ミー・ラヴ]]」が予約だけで210万枚に達し、またイギリスでも予約枚数が100万枚以上になり『ギネス・ワールド・レコーズ』には最も予約枚数があったレコードとして記載されている。
 
8月からは第2回アメリカツアーを行い、34日間、24都市で32公演<ref name="videoan"/>が開催される。なお同年7月に施行された公民権法制定により人種差別が許されなくなったはずのアメリカのフロリダ州ジャクソンヴィルでは、開催される予定のゲイター・ボウルがその後も黒人と白人の人種隔離政策を取っていたが、これを記者会見で尋ねられたポールがこれを「馬鹿げている」、リンゴも「全ての人々のために演奏している」と明確に非難し、その上で人種隔離政策を取っているような場所での公演を拒否し、称賛を受けた。なおゲイターボウルでは無事に人種差別が起きないまま公演を終えている。
179行目:
==== 野球場でのコンサート ====
 
[[1964年]]の全米ツアーは1か月に24都市を回るという強行スケジュールであり、加えてレコーディングや映画撮影、テレビ出演などもあってメンバーの疲労も非常に激しいものとなった<ref>[[ザ・ビートルズ・アンソロジー]] 日本語版 p.161</ref>。そのため、[[1965年]]の全米ツアーは日程が大幅に短縮され、2週間で10都市を回るスケジュールとなった。その代わりにコンサート会場として、何万人もの観客を一度に集めることができる[[野球場]]を使うことになった。[[1965年]][[8月15日]]にニューヨークの[[シェイ・スタジアム]]において開催されたコンサートの観客人数は55600人以上に上っている。これは当時としては世界最大の観客動員数であり、またビートルズが開催した全てのコンサートの中でも最大数である<ref name="anth187">[[ザ・ビートルズ・アンソロジー]] 日本語版 p.187</ref>。
 
[[1965年]]の全米ツアーのみならず、翌[[1966年]]の全米ツアーでも多くの野球場が使用された<ref group="注釈">この[[1966年]]のツアーでもシェイ・スタジアムが使用された。[[8月29日]]のビートルズ最後のコンサートも[[キャンドルスティック・パーク]]という野球場である。</ref>。ただし、こういった大規模な野外コンサートに対して、メンバーは音響面や観客との距離といった点で不満を抱いており<ref name="anth187"/>、これがビートルズのツアー中止の一因となった(詳細は[[#レコーディング・アーティストへの移行]]を参照)。これ以後、野球場・[[球技場|サッカー場]]といったスポーツ競技場での大規模コンサートは一般化していき<ref group="注釈">シェイ・スタジアム自体もその後[[ローリング・ストーンズ]]、[[ザ・フー]]、[[ポリス (バンド)|ポリス]]などがコンサート会場として使用している。2009年にシェイ・スタジアムは解体され、その前年である2008年に開催された[[ビリー・ジョエル]]のコンサートが最後となった。なお、このコンサートにはポールがゲスト出演している。詳細は[http://www.sonymusic.co.jp/Music/International/Special/BillyJoel/special/ 公式サイトの当該項目]を参照の事。</ref>、日本でも1968年8月12日に[[ザ・タイガース]]による[[後楽園球場]]でのコンサートが開催されて以降、スポーツ競技場でのコンサートが開催されるようになる。また、スポーツ競技場以外でも1969年の[[ウッドストック・フェスティバル|ウッド・ストック]]や1970年のワイト島フェスティバル([[:en:Isle of Wight Festival 1970|en]])といった大規模野外コンサートが行われるようになる。
192行目:
ジョンは発言を反省したのか後日、メンフィス・マフィア(エルヴィスの取り巻き)に「エルヴィスがいるからこそ今の自分がある」と伝えるよう頼んだという。しかし後にジョンがアメリカに住み、ベトナム反戦運動を積極的に行っている頃、エルヴィスは[[リチャード・ニクソン|ニクソン大統領]]に「ジョンを追放してほしい」との手紙を出したとも言われている。
 
この面会は当時の音楽界に於いて最も注目すべきものだったが、会話は録音されていない。これはパーカー大佐の要請ではなく、エプスタブランがエルヴィス側へ気を利かせ会話録音を一切許可しなかったからである。
 
==== ジョンのキリスト発言 ====
198行目:
 
これが「神を冒瀆した」とアメリカで解釈され、ビートルズのレコード、プロマイドやポスターといったグッズなどが組織的に破棄、焼却されるという事態に発展。特にアメリカ南部で大きな騒動となり、殺害予告もなされるに至った<ref name="anth225"/>。この事態に対し、ブライアン・エプスタインはツアー前に声明を発し「その解釈が誤解で、ジョン・レノンは神や宗教に対して真摯な態度の人間である。しかし現在の若者にはビートルズの方が影響力がある、と言いたかったのだ」という旨を述べた。またアメリカ各地のプロモーターに対してコンサートをキャンセルしても構わないと告げたが、キャンセルを申し出たプロモーターはいなかった<ref name="anth225"/>。公演前にジョンが釈明会見を行ったが騒動は続き、[[バイブル・ベルト]]<ref name="anth225"/>に着いた頃には乗っているバスの窓が群集に叩かれるなど危険な事態が生じた。アメリカツアーは予定通り行われた<ref>[http://rollingstonejapan.com/articles/detail/26495/ ジョン・レノンの「キリストより有名」発言論争の真実 RollingStone JAPAN]</ref>
が満員にならない会場も多かった。
 
==== ローマ教皇庁の赦免 ====
213行目:
司会を務めたのは[[E・H・エリック]]。前座として[[尾藤イサオ]]、[[内田裕也]]、[[望月浩]]、[[桜井五郎]]、[[ジャッキー吉川とブルーコメッツ]]、[[ブルージーンズ]]、[[ザ・ドリフターズ]](6月30日・7月1日のみ)が舞台に上がった。この前座バンドについては後にポールが「ハロー・ビートルズ、ウェルカム・ビートルズ、といった歌が聴こえて来た。音楽性は高くないがそういう歓待は嬉しかった」と発言している<ref name="anth216c">ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.216</ref>。このとき歌われた楽曲「ウェルカム・ビートルズ」は1966年9月10日発売のジャッキー吉川とブルーコメッツのアルバム『青い瞳/青い渚 ブルー・コメッツ・オリジナル・ヒット集』に収録されている。
 
しかしそうした歓待の一方で、初めて日本武道館という場所でポップ・ミュージックを演奏する事について批判する者も存在した。[[右翼]]団体、[[大日本愛国党]]総裁の[[赤尾敏]]をはじめとした街宣車や「Beatles Go Home」などと書かれた横断幕の前で街頭演説をする者が現れ<ref>ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.215</ref><ref>ビデオ版ザ・ビートルズ・アンソロジーに収録された記録映像。</ref>、さらに実際にビートルズ側に対して脅迫を行う者までもいた<ref name="anth216c"/>。このため[[警視庁]]は大規模な警備体制を取り、会場内においても1万人の観客に対して3千人の警官を配備して監視を行った<ref name="anth216c"/>。
 
また多くのファンが殺到することによる混乱を避けるためにビートルズ自身も行動が著しく制限され、分刻みのスケジュール管理、および日中の[[ヒルトン]]ホテルからの外出禁止などの措置がとられたが、その代わりに[[加山雄三]]のホテルへの訪問、着物屋や土産屋が訪問販売をした他、メンバーは行動制限をかいくぐって早朝の東京の街へ出かけている。
 
コンサート自体はマイク・スタンドの不備などの問題は生じたものの、事故や暴動などの問題は生じなかった。むしろ厳重な警備もあって(観客は立ち上がったり近づいたりする事が許されていなかった<ref name="anth216c"/>)会場が静かで自分達の演奏が聞こえたので、メンバーは最初のステージで、チューニングを丁寧にせず、自分達の音が合っていない事に気づいてショックを受けた。
ジョージ・ハリスンは最初のステージ後、「今日の『恋をするなら』は、ぼくがこれまでやってきたなかで最低だったよ」、「最近のツアーでぼくたちの演奏はこんなものなんだよ」と発言している。これを受けてビートルズとツアーメンバーは、次のステージまでに急いで改善の努力をした<ref name="anth216c"/>。
 
==== フィリピン事件 ====
227行目:
5日になってこの出来事は新聞やテレビで報道され、ビートルズの欠席を知ったフィリピン国民は怒りをあらわにした。離比しようとしているビートルズは空港等で多数の市民に取り囲まれたばかりでなく、警官や兵士までがメンバーに敵意を向けるという事態に発展する<ref name="anth220">[[ザ・ビートルズ・アンソロジー]] 日本語版 p.220</ref>。ロードマネージャーが小突かれたり足蹴にされたり、離陸許可がなかなか出ず、結局コンサートの収入をすべて当局に渡して<ref name="anth220"/>許可がようやく出てフィリピンを離れることができた。
 
後にメンバーおよび関係者は事件について<ref>ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.217-221</ref>「スタッフのマル・エヴァンスが死を覚悟する発言を口にした。この一件によってエプスタインが体調を崩した。あんな狂った場所には二度と行きたくない」と述べている。後の1986年にマルコス夫妻が失脚した際も、そのことに肯定的な発言がある。ニール・アスピノールは「この事件はビートルズからツアーへの意欲を奪った一因」と述べている<ref>[[ザ・ビートルズ・アンソロジー]] 日本語版 p.221</ref>。
 
=== レコーディング・アーティストへの移行 ===
243行目:
同月、ツアー終了後初めてアビーロード・スタジオに集合し「[[ストロベリー・フィールズ・フォーエバー]]」、「[[ホエン・アイム・シックスティー・フォー]]」、「[[ペニー・レイン]]」等を録音。これらの曲は当初、次のアルバムに収録する予定だったが<ref>ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.237</ref>、キャピトル側がシングルの早期発売を要請してきたため<ref name="compleat"/>、この内の2曲を先行してシングル発売する事になった。
 
1967年2月、「[[ストロベリー・フィールズ・フォーエバー]]」と「[[ペニー・レイン]]」が両A面シングルとして発売。レコーディングは引き続き行われ、6月1日にはイギリスでアルバム『[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (アルバム)|サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]』が発売される。このアルバムは当時のポピュラー音楽界の枠を超えて多大な文化的影響を与えたと言われている。同月25日、3億人以上が視聴した<ref>ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.257</ref>世界同時衛星中継番組「アワー・ワールド([[われらの世界]])」に出演し、「[[愛こそはすべて]]」を披露する。同曲は7月にシングル発売された。
 
[[File:The Beatles magical mystery tour.jpg|thumb|230px|「マジカル・ミステリー・ツアー」撮影時(1967年)]]
8月にジョージが[[サンフランシスコ]]に行き、{{仮リンク|ヘイト・アシュベリー|en|Haight-Ashbury}}で[[ヒッピー]]らと交流を持つが、ドラッグ・カルチャーに対して否定的な結論に至り、逆に[[シタール]]の習得の際に触れたインドの[[瞑想]]に深く関る様になる<ref>ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.233,259</ref>。このジョージの発案により、8月24日、妻の出産で出席出来なかったリンゴを除く3人がロンドンのヒルトン・ホテルで行われた[[マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー]]のレクチャーに参加。続けてウェールズの[[バンガー (ウェールズ)|バンガー]]でのセミナーに参加する。しかし27日に[[ブライアン・エプスタイン]]が急死したため、4人はセミナーを辞去してロンドンに戻る。エプスタブランの死によってビートルズのマネージメントの不備が明らかになり、[[アップル・コア]]設立が企図される<ref>ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp. 264-270</ref>。
 
9月<ref>ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.274</ref>からテレビ映画「[[マジカル・ミステリー・ツアー (映画)|マジカル・ミステリー・ツアー]]」の撮影が行われ、年末に[[BBC]]で放映される。同作のサウンドトラックは、11月にアメリカでコンピレーション形式のLP盤、12月にイギリスでEP盤が発売される。