「パーソナルコンピュータ史」の版間の差分
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[[File:Altair 8800.jpg|thumb|right|160px|[[Altair 8800]]]]
エンジニアや好事家などの中にその趣味の一環としてこの大幅に小型化され安価となった[[マイクロプロセッサ]]を応用して独自に[[マイクロコンピュータ]]を設計・製作する者たちが現れたが、このような個人向けの市場を開拓したという点で重要な位置付けとなるのが[[1975年]]
[[File:Micromodem II in Apple II.jpg|thumb|160px|Apple II
[[アップル (企業)|アップルコンピュータ]]を興した[[スティーブ・ジョブズ]]が[[1976年]]に、ガレージで製造した[[ワンボードマイコン]]の[[Apple I]]([[スティーブ・ウォズニアック]]による設計)を販売、ごく少数販売するに留まったが、翌年発売した[[Apple II]]は大成功を収め同社の基礎を作るとともに[[パーソナルコンピュータ]]の普及を促した。これは整数型[[BASIC]]インタプリタを[[Read Only Memory|ROM]]で搭載し、[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]を一体化、カラービデオ[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]出力機能を内蔵したもので、今日のパーソナルコンピュータの基本的な構成を満たしている。Apple IIは[[オープンアーキテクチャ]]であったため多くの[[互換機]]をも生み出すこととなり、同時にシェアも奪われることにつながった。後に互換機メーカーへの警告や[[提訴]]を行ったが<ref name=":1">{{Cite journal|和書|author=塩田紳二|year=1998|title=国産銘機列伝:History「パソコン、続々登場す」|journal=ASCII|volume=22|issue=6|pages=320-321|publisher=アスキー}}</ref>、互換機メーカーが無くなることはなかった。
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[[File:Macintosh 128k transparency.png|thumb|160px|right|[[Macintosh 128K]](1988年ころ)]]
一方、アップルが1980年
[[1980年代]]から高機能端末として[[ワークステーション]]が発達してきていたが、[[1990年代]]、パーソナルコンピュータの[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]機能が充実し、フル機能の[[UNIX]]が動作するようになってワークステーションとパーソナルコンピュータとの境界は曖昧になった。[[2000年代]]、Macintoshの[[オペレーティングシステム|OS]]はUNIXベースの[[macOS|Mac OS X]]へと移行し、またPC/AT互換機のOSもUNIX同等の機能を持った[[Windows NT系]]へと移行した。
1990年代末には、パーソナルコンピュータ市場は多数のメーカーによるPC/AT互換機と[[Microsoft Windows|Windows]]の組み合わせ ([[Wintel]]) がほぼ支配するようになった。だが、[[コモディティ化]]が進みメーカーによる差別化が困難となったPC市場では、[[デル]]など低価格で製造するメーカーがいくつも乱立、過当競争によって各メーカーは利益率が著しく低下し経営内容は悪化、市場からの撤退や[[合併]]・[[買収]]など、再編が相次いだ。PCのオリジナルであるIBM PCを開発・販売した[[IBM]]も、パーソナルコンピュータ事業の業績不振から、
一方、Macintoshは、アップルが他社による互換機を排し、ハードウェア・OS・小売事業の全てをアップル一社で提供する、という[[垂直統合 (ビジネス用語)|垂直統合]]のビジネスモデルを堅持したおかげで、全パーソナルコンピュータ販売数に占める割合、という点で見かけ上は小さくても、実は好調な利益率を確保することでビジネスとしては成功し、さらには、個人ユーザに焦点を合わせたことが功を奏し、パーソナルコンピュータ全体に占めるシェアまでも再びじわじわと拡大する傾向となった。
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黎明期の初端においては米国と同様にエンジニアや好事家が独自に部品を調達して[[ワンボードマイコン]]などを設計・制作し、あるいはもっぱら輸入された評価キットやワンボードマイコンなどが[[秋葉原]]の電子デバイス店などの小売店で細々と売られる程度であった<ref>{{Cite book|和書|author=安田寿明|title=マイ・コンピュータ入門 - コンピュータはあなたにもつくれる|series=ブルーバックス|year=1977|publisher=講談社|pages=78-118|chapter=第三章 マイ・コンピュータのつくり方}}</ref>。しかし米国でAltair 8800とその互換機が登場するとこれらの輸入品を主力に取り扱う店舗も登場するようになり「個人向けマイクロコンピュータの歴史」が始まる。
日本では
TK-80の立ち上がりを受けて他社からもワンボードマイコンが相次いで発売された。サードパーティからはその周辺機器が開発され、[[月刊アスキー]]や[[月刊マイコン]]などの専門誌も登場して「マイコンブーム」を形成した<ref>『パソコン革命の旗手たち』 pp.35-39、「マイコンキット TK-80」。</ref>。{{Main|ワンボードマイコン}}
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1977年9月、ベンチャー企業である[[東芝パソコンシステム|ソード電算機システム]](現 [[東芝パソコンシステム]])がM200シリーズを発売<ref>「ソード、スマート・ホーム・コンピューター M200シリーズ発売」『日経産業新聞』 1977年9月27日、4面。</ref>。これはコンピュータ本体とキーボード・モニタ・5インチFDDなど、必要な周辺機器を一体化したオールインワン・コンピュータであった<ref>{{Cite web|url=http://museum.ipsj.or.jp/computer/personal/0087.html|title=スマート・ホーム・コンピュータM200シリーズ-コンピュータ博物館|accessdate=2010-09-25|publisher=情報処理学会}}</ref>。BASICを採用していたが、価格は150万円とあまりにも高価でありパーソナルコンピュータ(個人所有の安価なコンピュータ)とはいえないものであった。これ以前にショップブランドではあるが、アスターインターナショナルよりキーボード・モニタ一体型のコスモターミナル-Dが発売されている<ref>「アスターインター、30万円割る低価格パーソナル電算機拡販へ」『日本情報産業新聞』 1977年9月19日、6面。</ref>。また、同年に月刊マイコンが創刊された(当時は隔月刊の出版元への直接注文であったが、創刊号8月、10月号を経て12月号より月刊誌となり、全国書店にて取り扱いを開始した)。この12月号の表紙がコスモターミナル-Dであった。同年11月、[[精工舎]](現 [[セイコーホールディングス|セイコー]])からSEIKO5700という業務用コンピュータが発売された<ref>「パーソナルコンピュータ完成―精工舎、内田洋行通じ発売」『日刊工業新聞』1977年11月9日、14面。</ref>。蛍光表示管やプリンタ・キーボード一体型の同機はフォートランを採用。しかし高価であったために、パーソナルという言葉のようには「一般化」はされておらず、研究開発の用途向けであったと思われる。
[[ファイル:Nec PC 8000 series.jpg|サムネイル|NEC [[PC-8000シリーズ|PC-8001]](1979年)]]
その後、パーソナル用途向けのより安価なコンピュータが各社から発売される(これ以前の物は個人所有にはあまりにも高価でパーソナル用途のコンピュータではなかった)。[[シャープ]]より[[MZ-80]]
当時の日本で製造・販売されるパソコンとして主流であったのは、電源を入れればROMに書き込まれた[[BASIC]]が起動する(立ち上がる)[[ROM-BASIC]]マシンであった。これらはコンピュータを起動するとBASICインタプリタが起動され、コマンドプロンプトから直接BASICのコマンドを入力して処理を行うことができた。これらの機体の形状は Apple II にも似たキーボード一体型、ディスプレイ別置きであった。一方、シャープの[[MZ (コンピュータ)|MZ]]シリーズはインタプリタをROMであえて持たずに[[クリーンコンピュータ]]と称していたほか、ディスプレイも一体化して「オールインワン」として発売された。
1980年代初頭にはより高機能な8ビット機が発売された。NECは[[PC-8800シリーズ]]
[[ファイル:Sony SMC-70 Micro Computer.jpg|サムネイル|ソニー [[SMC-70]](1982年)]]
この頃に他のメーカーから発売された機種は以下の通り。
* 日立は[[ベーシックマスター]]レベル3(1980年)
* 東芝のパソピア(1981年)
* [[カシオ計算機]]からは[[FP-1100]]シリーズ(1982年)
* ソニー初のパソコンで、ビデオ機器との連動機能を持たせた[[SMC-70]]の発表(1982年11月)
* ソニーから初めて3.5インチのフロッピーディスクを内蔵した[[SMC-777]]が登場(1983年)
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[[ポケットコンピュータ]]や[[ハンドヘルドコンピュータ]]と称する(のちのWindowsCE Handheld PCとは異なりA4判程度)携帯PCが一部メーカーから出たのもこの頃だった。
* [[ポケットコンピュータの製品一覧]]
* [[HC-20|HC-20/40]]([[セイコーエプソン|エプソン]]、
* [[PC-8200シリーズ|PC-8201]](NEC/[[京セラ]]、
* [[TRS-80 model 100]]([[タンディ]]/[[京セラ]]、
*
[[ファイル:Percent of public schools computers in Japan 1983-1993.svg|サムネイル|1993年までの日本の公立学校におけるコンピュータ設置率([[文部省]]調べ)]]
この時代、特に日本国内のパソコン市場においては、日本語表示や日本語入力などの諸問題により8ビットパソコンを本格的なビジネス用途に使うには限界があった<ref name=":0">{{Cite news|date=1982-04-28|newspaper=[[日本経済新聞]]|title=パソコン特集|pages=33-40}}</ref>。しかし、その実用性はともかく[[趣味]]でパソコンを購入する人が増え<ref group="注">この時代には、『[[I/O (雑誌)|I/O]]』、『[[月刊アスキー|ASCII]]』、『[[RAM (雑誌)|RAM]]』、『[[月刊マイコン|マイコン]]』といった総合誌が先行して発売されていたが、日本ソフトバンクが発売した各メーカー別の雑誌も存在した(『[[Oh!PC]]』、『[[Oh!X|Oh!MZ]]』、『[[Oh!FM]]』、『Oh!HITBIT』など)。これらのマイコン/パソコン雑誌ではバイナリダンプやソースコードを紙面に掲載し、それを[[機械語モニタ|モニタ]]([[機械語]]のマシンコードを入力する[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]やBASICインタプリタ上で手入力していた。</ref>、また来るべきコンピュータ時代に向け、学校教育にもパソコンが導入された<ref name=":0" />ほか、これを買い与えられる児童もあった。この時代において、主に趣味の[[プログラミング (コンピュータ)|プログラミング]]や[[コンピュータゲーム]]に供されたパソコンを[[ホビーパソコン]]とも呼ぶ<ref name=":1" />。
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=== 8ビットパソコンの終焉 ===
[[ファイル:Philips MSX2 computer at Play Expo 2013 (1).JPG|サムネイル|フィリップス MS8250 (MSX2)]]
もっとも8ビットCPUの非力なパワーや狭いメモリ空間でこれらの機能を活用することは難しく、開発コストや人員の問題もあって市販のゲームソフトなどでは3機種の全てでの発売と引き換えに画像などのデータの使いまわしが行われ、多色機能等はあまり活用されなかった。
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初代ベーシックマスターで先鞭を付けた日立はこのころ、高速なグラフィック機能や、独自のメモリコントローラにより8ビット機ながら1Mバイトのメモリ空間を持つ、[[ベーシックマスター#S1|MB-S1]](1984年)を出したりMSX/MSX2に参入するなどしたものの、結局ホビーユースからは脱落している。また、シャープのMZシリーズは[[MZ-2500]](1985年)を最後に16ビットパソコンのビジネス路線に移行した。
この隙をついて[[MSX2]](1985年)が低価格路線に踏み切り、参加企業は減少したものの8ビット御三家とファミリーコンピュータの中間的な存在として一部で人気を得た。低価格でフロッピーディスクドライブ内蔵のモデルも発売されたが、[[MSX|MSX2+]]
8ビットパソコンは、ビジネスユースと[[パソコンゲーム|ゲーム]]という2つの市場の要望に、前者を16ビットパソコンに、後者を[[コンシューマーゲーム]]機に奪われるという形でその幕を閉じることとなった。
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[[ファイル:NEC PC-9801UV owned by Takayama city.jpg|サムネイル|NEC [[PC-9800シリーズ|PC-9801UV11]](1988年)]]
[[ファイル:Toshiba J-3100GT.jpg|サムネイル|東芝 [[J-3100シリーズ|J-3100GT]](1987年)]]
この頃からパーソナル・コンピュータは「パソコン」と呼ばれるようになった。「オフコン」は、2000年代以降はあまり見聞きしなくなったが、「パソコン」はポピュラーな代名詞となり、今日も使用され続けている。
ここで、[[IBM PC]]が採用した[[PC DOS]]のOEM版である[[MS-DOS]]と、8ビット時代からのOSである[[CP/M|CP/M-86]]のどちらを採用するかといった問題が起こった。後者を選択したメーカーも三菱電機、富士通など複数社が存在したが、
8ビットパソコンと違って黎明期の16ビットパソコンはその対象となる市場が法人中心であり、かつ高価だったこともあってPC-9800シリーズも含めて家庭用としてはまだ普及せず、雑誌でのBASICなどの投稿プログラムも少なく、市販されたソフトウェアもゲームよりもビジネス向けソフトやユーティリティが中心であった。また、システム販売用途としてカスタマイズされたソフトウェアが組み込まれてシステムとして発売されるケースがほとんどであった。
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時代が進みPC-9800シリーズが普及するとホビー用としても用いられるようになり、多数のゲームソフトが登場するようになった。またソフトウェアへの要求度合が上がるにつれ、ホビー用途でも8ビット機のパワーでは物足りなくなった。
PC-9800シリーズでも途中からGRCG/EGCの搭載や16色対応・FM音源などの強化がされたが、よりホビー色を強めた16ビットパソコンとして
これらの機種は既存のパーソナルコンピュータと比較するとホビー用のハードウェアが強化されていた。当時はソフトウェア上で処理するよりもハードウェアで処理することにより高速化が計られる時代であった。X68000シリーズのスプライト機能の搭載が良い例である。同様のアプローチは海外でもなされており、画像関係に強い[[Amiga]](1986年)、音楽系に強い[[Atari ST|ATARI-520ST]]が製造されていた。
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=== 32ビットパソコン・Windowsの時代 ===
[[ファイル:Ibm300pl.jpg|サムネイル|IBM [[IBM PC Series|PC 300PL]](1997年)]]
[[Macintosh]]は[[漢字Talk|漢字Talk7]]が発売された頃からハードウェアの値下げと日本語処理機能の充実により[[マルチメディア]]に優れたパソコンとして認知され、シェアを伸ばしていった。
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NECはWindows向けに性能を上げた[[PC-9821シリーズ]](1992年)を発売したが、これらの影響を受けて次第に部品の大部分がPC/AT互換機と共通になっていった<ref name=":5" />。FM-Rで唯一PC-9800に食い下がっていた富士通は既存の機種の機能強化と並行してPC/AT互換機[[FMV]](1993年)の販売を開始し<ref>『パソコン革命の旗手たち』 pp.280-283 「富士通ショック」</ref>、次第に独自路線を縮小していった。
[[ファイル:CF-S21 Panasonic.jpg|サムネイル|パナソニック [[Let'snote]](1998年)]]
なおWindowsにはNT系列と95系列とふたつの系列があったが、Windows XP以降はNT系列に統合されている。
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