「パーソナルコンピュータ史」の版間の差分

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[[File:Altair 8800.jpg|thumb|right|160px|[[Altair 8800]]]]
エンジニアや好事家などの中にその趣味の一環としてこの大幅に小型化され安価となった[[マイクロプロセッサ]]を応用して独自に[[マイクロコンピュータ]]を設計・製作する者たちが現れたが、このような個人向けの市場を開拓したという点で重要な位置付けとなるのが[[1975年]][[1月]]にPopular Electronics誌で紹介されたMITSの[[Altair 8800]]や、その後互換機として発売されたIMSの[[IMSAI 8080]]である。Altairは[[1974年]]に発表されたばかりの[[Intel 8080|8080]]マイクロプロセッサを採用していたが本質的には小型化された[[ミニコンピュータ]]であり、箱型の筐体に[[CPU]]や[[記憶装置]]を収容し[[端末]]を接続する形態であった。起動にも複雑な操作を必要とし本体単体のみではごく限定された機能・性能しか持ち得ないものであったが、拡張ボード(通称 S-100 バス。後にIEEE-696として標準化された)によって柔軟に入出力装置や記憶装置の増設を可能としていたなどその後のパーソナルコンピュータの発展の起爆剤となった([[マイクロコンピュータ]]の記事も参照)。
 
[[File:Micromodem II in Apple II.jpg|thumb|160px|Apple II  と[[モデム]]]]
[[アップル (企業)|アップルコンピュータ]]を興した[[スティーブ・ジョブズ]]が[[1976年]]に、ガレージで製造した[[ワンボードマイコン]]の[[Apple I]]([[スティーブ・ウォズニアック]]による設計)を販売、ごく少数販売するに留まったが、翌年発売した[[Apple II]]は大成功を収め同社の基礎を作るとともに[[パーソナルコンピュータ]]の普及を促した。これは整数型[[BASIC]]インタプリタを[[Read Only Memory|ROM]]で搭載し、[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]を一体化、カラービデオ[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]出力機能を内蔵したもので、今日のパーソナルコンピュータの基本的な構成を満たしている。Apple IIは[[オープンアーキテクチャ]]であったため多くの[[互換機]]をも生み出すこととなり、同時にシェアも奪われることにつながった。後に互換機メーカーへの警告や[[提訴]]を行ったが<ref name=":1">{{Cite journal|和書|author=塩田紳二|year=1998|title=国産銘機列伝:History「パソコン、続々登場す」|journal=ASCII|volume=22|issue=6|pages=320-321|publisher=アスキー}}</ref>、互換機メーカーが無くなることはなかった。
 
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[[File:Macintosh 128k transparency.png|thumb|160px|right|[[Macintosh 128K]](1988年ころ)]]
一方、アップルが1980年[[5月]]に満を持して投入した[[Apple III]] (Apple3) はApple IIとの互換性が完全ではなかった上に品質上の問題も抱え、市場で受け入れられることなく失敗する。Apple IIIに見切りをつけたアップルは、[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]と[[マルチタスク]]を備えた[[Lisa (コンピュータ)|Lisa]]を [[1983年]]に発売し注目を集めるが、これも高価すぎて営業的には失敗に終わる。その後、より安価な[[Macintosh]]を[[1984年]]に発売するとようやく一定の成功を収めた。しかしApple IIで互換機メーカーにシェアを奪われる苦汁をなめたことからクローズドアーキテクチャにした。当然、互換機という敵はなかった。一時は様々な思惑のもとに[[Macintosh互換機]]事業を開始したが、その時点で既にPC/AT互換機が業界標準となりつつあったため、パーソナルコンピュータ全体の中でのシェアは期待ほど伸びず、逆に互換機メーカーとMacintosh互換機市場を食い合う結果となった<ref>{{Cite journal|和書|author=柴田文彦|year=1998|title=国産銘機列伝:History「Macintosh、矛盾のなかの魅力」|journal=ASCII|volume=22|issue=9|pages=322-323|publisher=アスキー}}</ref>。最終的にアップルは互換機ビジネスを中止してクローズドアーキテクチャに回帰し、パーソナルコンピュータ全体の中でのシェア争いは放棄し、アップルとしての利益を確実に確保することを選択した。
 
[[1980年代]]から高機能端末として[[ワークステーション]]が発達してきていたが、[[1990年代]]、パーソナルコンピュータの[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]機能が充実し、フル機能の[[UNIX]]が動作するようになってワークステーションとパーソナルコンピュータとの境界は曖昧になった。[[2000年代]]、Macintoshの[[オペレーティングシステム|OS]]はUNIXベースの[[macOS|Mac OS X]]へと移行し、またPC/AT互換機のOSもUNIX同等の機能を持った[[Windows NT系]]へと移行した。
 
1990年代末には、パーソナルコンピュータ市場は多数のメーカーによるPC/AT互換機と[[Microsoft Windows|Windows]]の組み合わせ ([[Wintel]]) がほぼ支配するようになった。だが、[[コモディティ化]]が進みメーカーによる差別化が困難となったPC市場では、[[デル]]など低価格で製造するメーカーがいくつも乱立、過当競争によって各メーカーは利益率が著しく低下し経営内容は悪化、市場からの撤退や[[合併]]・[[買収]]など、再編が相次いだ。PCのオリジナルであるIBM PCを開発・販売した[[IBM]]も、パーソナルコンピュータ事業の業績不振から、[[2004年]]12月にパーソナルコンピュータ事業を[[中華人民共和国|中国]]のレノボ・グループ([[聯想集団]])に売却すると発表した。ハードウエアのオープンアーキテクチャ化を大きな要因として繁栄したPC/AT互換機であったが、その本家本元のIBMが、最終的にはその互換機同士の過当競争によって市場撤退へと追い込まれてしまうことになったのである。
 
一方、Macintoshは、アップルが他社による互換機を排し、ハードウェア・OS・小売事業の全てをアップル一社で提供する、という[[垂直統合 (ビジネス用語)|垂直統合]]のビジネスモデルを堅持したおかげで、全パーソナルコンピュータ販売数に占める割合、という点で見かけ上は小さくても、実は好調な利益率を確保することでビジネスとしては成功し、さらには、個人ユーザに焦点を合わせたことが功を奏し、パーソナルコンピュータ全体に占めるシェアまでも再びじわじわと拡大する傾向となった。
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黎明期の初端においては米国と同様にエンジニアや好事家が独自に部品を調達して[[ワンボードマイコン]]などを設計・制作し、あるいはもっぱら輸入された評価キットやワンボードマイコンなどが[[秋葉原]]の電子デバイス店などの小売店で細々と売られる程度であった<ref>{{Cite book|和書|author=安田寿明|title=マイ・コンピュータ入門 - コンピュータはあなたにもつくれる|series=ブルーバックス|year=1977|publisher=講談社|pages=78-118|chapter=第三章 マイ・コンピュータのつくり方}}</ref>。しかし米国でAltair 8800とその互換機が登場するとこれらの輸入品を主力に取り扱う店舗も登場するようになり「個人向けマイクロコンピュータの歴史」が始まる。
 
日本では[[1976年]][[5月]]に[[東芝]]より[[TLCS-12A]] EX-0<ref group="注">型番はTLCS-12A EX-12/0と表記されることもある</ref>(定価99,000円)が発売された<ref>東芝、すべてを1チップに集積したマイクロ・コンピュータを開発 - 日刊工業新聞 1976年8月12日付</ref>。電源装置を別途用意すれば、12ビットのLED表示とディップスイッチを使って[[テレタイプ端末]]などの入出力機器を必要とせずに動作させることができる日本国産初のワンボードマイコンである。のちの「国産マイコン」に連なる最初の製品は[[1976年]][[8月3日]]に[[日本電気]](NEC)から発売された[[TK-80]](定価88,500円)とされる。本機はTK(Training Kit)という名前からも分かるように、元来は[[Intel 8080|8080]]互換マイクロプロセッサの採用を検討する企業の技術者に向けた評価・教育用ツールであった。これはボードに16進キーボードと[[発光ダイオード|LED]]表示器がついただけのものだったが、同年9月に秋葉原に開設した[[Bit-INN]]でサポートが行われ<ref name="tk80_reldate">{{Cite book|和書|author=太田行生|title=パソコン誕生|year=1983|publisher=日本電気文化センター|isbn=4930916119|page=34}}</ref>、同年10月にNECマイコンクラブを結成するなど積極的なユーザ支援体制もあって、企画当初の予想を超えたベストセラーになった<ref>{{Cite web|url=加藤明、「[https://wwwdoi.jstageorg/10.jst.go.jp/article1587/bplus/.2010/15/2010_15_15_58/_article/.15_58 PC-char/ja/|title=J-STAGE :8001の開発]」 電子情報通信学会  通信ソサイエティマガジン : Vol.2010年 2010 No. 15 : PCp.15_58-8001の開発15_65, {{doi|accessdate=2016-11-03|author=加藤明|date=2011-06-01|publisher=10.1587/bplus.2010.15_5}} [[電子情報通信学会]]}}</ref>。
 
TK-80の立ち上がりを受けて他社からもワンボードマイコンが相次いで発売された。サードパーティからはその周辺機器が開発され、[[月刊アスキー]]や[[月刊マイコン]]などの専門誌も登場して「マイコンブーム」を形成した<ref>『パソコン革命の旗手たち』 pp.35-39、「マイコンキット TK-80」。</ref>。{{Main|ワンボードマイコン}}
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1977年9月、ベンチャー企業である[[東芝パソコンシステム|ソード電算機システム]](現 [[東芝パソコンシステム]])がM200シリーズを発売<ref>「ソード、スマート・ホーム・コンピューター M200シリーズ発売」『日経産業新聞』 1977年9月27日、4面。</ref>。これはコンピュータ本体とキーボード・モニタ・5インチFDDなど、必要な周辺機器を一体化したオールインワン・コンピュータであった<ref>{{Cite web|url=http://museum.ipsj.or.jp/computer/personal/0087.html|title=スマート・ホーム・コンピュータM200シリーズ-コンピュータ博物館|accessdate=2010-09-25|publisher=情報処理学会}}</ref>。BASICを採用していたが、価格は150万円とあまりにも高価でありパーソナルコンピュータ(個人所有の安価なコンピュータ)とはいえないものであった。これ以前にショップブランドではあるが、アスターインターナショナルよりキーボード・モニタ一体型のコスモターミナル-Dが発売されている<ref>「アスターインター、30万円割る低価格パーソナル電算機拡販へ」『日本情報産業新聞』 1977年9月19日、6面。</ref>。また、同年に月刊マイコンが創刊された(当時は隔月刊の出版元への直接注文であったが、創刊号8月、10月号を経て12月号より月刊誌となり、全国書店にて取り扱いを開始した)。この12月号の表紙がコスモターミナル-Dであった。同年11月、[[精工舎]](現 [[セイコーホールディングス|セイコー]])からSEIKO5700という業務用コンピュータが発売された<ref>「パーソナルコンピュータ完成―精工舎、内田洋行通じ発売」『日刊工業新聞』1977年11月9日、14面。</ref>。蛍光表示管やプリンタ・キーボード一体型の同機はフォートランを採用。しかし高価であったために、パーソナルという言葉のようには「一般化」はされておらず、研究開発の用途向けであったと思われる。
[[ファイル:Nec PC 8000 series.jpg|サムネイル|NEC [[PC-8000シリーズ|PC-8001]](1979年)]]
その後、パーソナル用途向けのより安価なコンピュータが各社から発売される(これ以前の物は個人所有にはあまりにも高価でパーソナル用途のコンピュータではなかった)。[[シャープ]]より[[MZ-80]]K([[1978K(1978]])、日立より[[ベーシックマスター]]MB-6880(1978年)、NECより[[PC-8000シリーズ|PC-8001]]([[1979(1979]])が発売された。当初はこの3機種が[[8ビットパソコン]]初期の[[御三家]]と言われたが、ベーシックマスターレベル1・2は途中より遅れ気味となり(ただし完全に消えた訳ではなく一定のシェアはあった)1980年前後はPC-8001とMZ-80K/Cが人気を二分したと言っても過言ではない<ref>『パソコン革命の旗手たち』 pp.71-74、「3. 国民機の開発 : 草の根ユーザーの支援」</ref>。
 
当時の日本で製造・販売されるパソコンとして主流であったのは、電源を入れればROMに書き込まれた[[BASIC]]が起動する(立ち上がる)[[ROM-BASIC]]マシンであった。これらはコンピュータを起動するとBASICインタプリタが起動され、コマンドプロンプトから直接BASICのコマンドを入力して処理を行うことができた。これらの機体の形状は Apple II にも似たキーボード一体型、ディスプレイ別置きであった。一方、シャープの[[MZ (コンピュータ)|MZ]]シリーズはインタプリタをROMであえて持たずに[[クリーンコンピュータ]]と称していたほか、ディスプレイも一体化して「オールインワン」として発売された。
 
1980年代初頭にはより高機能な8ビット機が発売された。NECは[[PC-8800シリーズ]]([[1981(1981]])、[[富士通]]が[[FM-8]]([[1981(1981]])、そのFM-8から周辺機能を削り、音源を搭載した[[FM-7]]([[1982(1982]])、シャープからはMZシリーズを開発した部署とは別のシャープテレビ事業部が開発した[[X1 (コンピュータ)|X1]]シリーズ(型番はCZ、[[1982年]])が登場し市場を寡占化した<ref>「シェア激戦区 日経調査(12) パソコン―タモリ指名殺到(産業ルポルタージュ)」『日経産業新聞』1983年6月7日、20面。</ref>。この頃には[[8ビット御三家]]とはこの3機種を指すようになった。また、後発の[[ソニー]]は初めて3.5インチの[[フロッピーディスク]]を内蔵した機種を発売して話題を集めた<ref>『パソコン革命の旗手たち』 pp.159-161、"6. 小さな頭脳 「私より、ちょっと賢い」"</ref>。なお、3.5インチマイクロフロッピーディスクの規格とは別に松下電器・日立が3インチのコンパクトフロッピーディスクという規格を策定したが普及するには至らず、最終的にはソニーの推す3.5インチが主流となった<ref>『パソコン革命の旗手たち』 pp.169-173 「6. 小さな頭脳 : 3.5インチフロッピーディスク」</ref>。
[[ファイル:Sony SMC-70 Micro Computer.jpg|サムネイル|ソニー [[SMC-70]](1982年)]]
この頃に他のメーカーから発売された機種は以下の通り。
* 日立は[[ベーシックマスター]]レベル3(1980年)  初の6809+同MPU用MicrosoftBASIC搭載
* 東芝のパソピア(1981年)
* [[カシオ計算機]]からは[[FP-1100]]シリーズ(1982年)  10進演算など、数値演算に力を入れた機種
* ソニー初のパソコンで、ビデオ機器との連動機能を持たせた[[SMC-70]]の発表(1982年11月)
* ソニーから初めて3.5インチのフロッピーディスクを内蔵した[[SMC-777]]が登場(1983年)
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[[ポケットコンピュータ]]や[[ハンドヘルドコンピュータ]]と称する(のちのWindowsCE Handheld PCとは異なりA4判程度)携帯PCが一部メーカーから出たのもこの頃だった。
* [[ポケットコンピュータの製品一覧]]
* [[HC-20|HC-20/40]]([[セイコーエプソン|エプソン]]、[[1982年]]
* [[PC-8200シリーズ|PC-8201]](NEC/[[京セラ]]、[[1983年]]
* [[TRS-80 model 100]]([[タンディ]]/[[京セラ]]、[[1983年]]
* JR-800(松下電器産業、[[1984年]]
[[ファイル:Percent of public schools computers in Japan 1983-1993.svg|サムネイル|1993年までの日本の公立学校におけるコンピュータ設置率([[文部省]]調べ)]]
この時代、特に日本国内のパソコン市場においては、日本語表示や日本語入力などの諸問題により8ビットパソコンを本格的なビジネス用途に使うには限界があった<ref name=":0">{{Cite news|date=1982-04-28|newspaper=[[日本経済新聞]]|title=パソコン特集|pages=33-40}}</ref>。しかし、その実用性はともかく[[趣味]]でパソコンを購入する人が増え<ref group="注">この時代には、『[[I/O (雑誌)|I/O]]』、『[[月刊アスキー|ASCII]]』、『[[RAM (雑誌)|RAM]]』、『[[月刊マイコン|マイコン]]』といった総合誌が先行して発売されていたが、日本ソフトバンクが発売した各メーカー別の雑誌も存在した(『[[Oh!PC]]』、『[[Oh!X|Oh!MZ]]』、『[[Oh!FM]]』、『Oh!HITBIT』など)。これらのマイコン/パソコン雑誌ではバイナリダンプやソースコードを紙面に掲載し、それを[[機械語モニタ|モニタ]]([[機械語]]のマシンコードを入力する[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]やBASICインタプリタ上で手入力していた。</ref>、また来るべきコンピュータ時代に向け、学校教育にもパソコンが導入された<ref name=":0" />ほか、これを買い与えられる児童もあった。この時代において、主に趣味の[[プログラミング (コンピュータ)|プログラミング]]や[[コンピュータゲーム]]に供されたパソコンを[[ホビーパソコン]]とも呼ぶ<ref name=":1" />。
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=== 8ビットパソコンの終焉 ===
[[ファイル:Philips MSX2 computer at Play Expo 2013 (1).JPG|サムネイル|フィリップス MS8250 (MSX2)]]
[[1982年]]に後述のPC-9800シリーズが登場する一方で、MSXが出た同じ年の[[1983年]]、[[任天堂]]から[[ファミリーコンピュータ]]が登場。機能の絞込みによる低価格を武器に[[アーケードゲーム]]の各メーカーが参入してタイトルが豊富に出揃い、爆発的に普及した。コピーに悩まされていたゲームメーカーは、次第に、コピーが難しいファミリーコンピュータ用に開発するようになった。
 
[[1984年]]頃からは独自規格の8ビットパソコンはNEC・シャープ・富士通の3強が主となり、ホビーユースに的を絞った[[PC-8801mkIISR]]([[1985(1985]])・[[X1turbo]](1984年)・[[FM77AV]](1985年)の[[8ビット御三家]]各モデルの次世代の時代に突入した。これらはグラフィックを高速・多色化し、音については[[PCM音源]]・[[FM音源]]化、外部記憶装置は[[フロッピーディスク|フロッピーディスクドライブ]]内蔵が標準的となり、BASICも[[DISK-BASIC]]となった。ROM-BASICは互換性のために残されていた。
 
もっとも8ビットCPUの非力なパワーや狭いメモリ空間でこれらの機能を活用することは難しく、開発コストや人員の問題もあって市販のゲームソフトなどでは3機種の全てでの発売と引き換えに画像などのデータの使いまわしが行われ、多色機能等はあまり活用されなかった。
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初代ベーシックマスターで先鞭を付けた日立はこのころ、高速なグラフィック機能や、独自のメモリコントローラにより8ビット機ながら1Mバイトのメモリ空間を持つ、[[ベーシックマスター#S1|MB-S1]](1984年)を出したりMSX/MSX2に参入するなどしたものの、結局ホビーユースからは脱落している。また、シャープのMZシリーズは[[MZ-2500]](1985年)を最後に16ビットパソコンのビジネス路線に移行した。
 
[[1987年]]、シャープとNECは16ビットのホビーパソコンを発売し、またNECは[[PCエンジン]]を出した。[[1989年]]に富士通も32ビットのホビーパソコンを、NECが[[PC-9800シリーズ#PC-8800シリーズ互換|PC-98DO]]を出して、8ビット御三家の時代は終焉を迎えた。
 
この隙をついて[[MSX2]](1985年)が低価格路線に踏み切り、参加企業は減少したものの8ビット御三家とファミリーコンピュータの中間的な存在として一部で人気を得た。低価格でフロッピーディスクドライブ内蔵のモデルも発売されたが、[[MSX|MSX2+]]([[1988(1988]])になるとソニー、松下電器産業(現 パナソニック)、[[三洋電機]]以外は完全に撤退した。それもつかの間、[[1990年]]のMSX最終形態のturboRが16ビット機という触れ込みで登場するもののそのまま終焉することになる(同時期に[[任天堂]]も16ビットの[[スーパーファミコン]]に移行した)。
 
8ビットパソコンは、ビジネスユースと[[パソコンゲーム|ゲーム]]という2つの市場の要望に、前者を16ビットパソコンに、後者を[[コンシューマーゲーム]]機に奪われるという形でその幕を閉じることとなった。
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[[ファイル:NEC PC-9801UV owned by Takayama city.jpg|サムネイル|NEC [[PC-9800シリーズ|PC-9801UV11]](1988年)]]
[[ファイル:Toshiba J-3100GT.jpg|サムネイル|東芝 [[J-3100シリーズ|J-3100GT]](1987年)]]
[[1978年]]に科学技術計算および計測制御用途として16ビットパソコンC-15が[[PFU|パナファコム]]から発売された<ref>{{Cite web |url=http://pc.watch.impress.co.jp/docs/topic/feature/633377.html |title=PFU「ProDeSセンター」見学記 |accessdate=2016年7月4日 |author=山口真弘 |date=2014年2月1日 |work=PC Watch |publisher=[[インプレス]] }}</ref>{{sfn|山田昭彦|2014|p=313}}。[[1981年]]、業界初の16ビット業務用パソコンをうたう[[MULTI 16シリーズ|MULTI16]](OSはCP/M-86)が三菱電機より発表されるが<ref>{{Cite web |url=http://museum.ipsj.or.jp/computer/personal/0009.html |title=【三菱電機】 MULTI16 |accessdate=2016年7月4日 |work=コンピュータ博物館 |publisher=[[情報処理学会]] }}</ref>{{sfn|山田昭彦|2014|pp=238-239}}、コンシューマ向けに意図されたものではなく、一般にはほとんど普及することはなかった<ref>『パソコン革命の旗手たち』 pp.92-96 「3. 国民機の開発 : IBM産業スパイ事件」</ref>(製品としての寿命は長かった)。
 
この頃からパーソナル・コンピュータは「パソコン」と呼ばれるようになった。「オフコン」は、2000年代以降はあまり見聞きしなくなったが、「パソコン」はポピュラーな代名詞となり、今日も使用され続けている。
 
[[1982年]]には16ビットCPUを採用して長くベストセラーとなった[[PC-9800シリーズ]]が登場した。[[PC-9800シリーズ]]はBASIC言語レベルにて従来の8ビット機と互換を持たせる方法を採った。その他の(主にビジネス向けの)国産機も16ビット化が始まっていた。既存の8ビット機でも16ビットCPU搭載の拡張カードを発売した機種もあった。
 
ここで、[[IBM PC]]が採用した[[PC DOS]]のOEM版である[[MS-DOS]]と、8ビット時代からのOSである[[CP/M|CP/M-86]]のどちらを採用するかといった問題が起こった。後者を選択したメーカーも三菱電機、富士通など複数社が存在したが、[[1983年]]にIBM PC/XTでPC DOS 2.0が採用されその日本語OEM版であるMS-DOS 2.0日本語版が登場するとほどなく市場を制した。その後はMS-DOSを採用したPC-9800シリーズの独走態勢となった。
 
8ビットパソコンと違って黎明期の16ビットパソコンはその対象となる市場が法人中心であり、かつ高価だったこともあってPC-9800シリーズも含めて家庭用としてはまだ普及せず、雑誌でのBASICなどの投稿プログラムも少なく、市販されたソフトウェアもゲームよりもビジネス向けソフトやユーティリティが中心であった。また、システム販売用途としてカスタマイズされたソフトウェアが組み込まれてシステムとして発売されるケースがほとんどであった。
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時代が進みPC-9800シリーズが普及するとホビー用としても用いられるようになり、多数のゲームソフトが登場するようになった。またソフトウェアへの要求度合が上がるにつれ、ホビー用途でも8ビット機のパワーでは物足りなくなった。
 
PC-9800シリーズでも途中からGRCG/EGCの搭載や16色対応・FM音源などの強化がされたが、よりホビー色を強めた16ビットパソコンとして[[1987年]]にシャープから[[X68000]]、またNECから[[PC-88VA]]、[[1989年]]には富士通から32ビットパソコン[[FM TOWNS]]が発売された。
 
これらの機種は既存のパーソナルコンピュータと比較するとホビー用のハードウェアが強化されていた。当時はソフトウェア上で処理するよりもハードウェアで処理することにより高速化が計られる時代であった。X68000シリーズのスプライト機能の搭載が良い例である。同様のアプローチは海外でもなされており、画像関係に強い[[Amiga]](1986年)、音楽系に強い[[Atari ST|ATARI-520ST]]が製造されていた。
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=== 32ビットパソコン・Windowsの時代 ===
[[ファイル:Ibm300pl.jpg|サムネイル|IBM [[IBM PC Series|PC 300PL]](1997年)]]
[[1990年]]頃には[[FM TOWNS]]のように日本国産機も32ビットCPUを採用する機種が現れた。同じ頃[[PC/AT互換機]]で日本語の取り扱いが可能になるOS「[[DOS/V]]が登場し、また[[1991年]]にはGUIを使った[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.0]]が発売され、世界的な標準機である「PC/AT互換機」が上級ユーザを中心に日本に流入し始めた。この頃に[[PCオープン・アーキテクチャー推進協議会|OADG]]も結成され、日本国内独自のビジネスパソコンやAX機を発売していたメーカーはPC/AT互換機路線に転換した<ref name=":5">{{Cite journal|和書|author=塩田紳二|year=1998|title=国産銘機列伝 : History 「そして、世界標準がやって来た」|journal=ASCII|volume=22|issue=8|pages=378-379|publisher=アスキー|ISSN=03865428}}</ref>。
 
[[1993年]]に改良されたWindows3.1が発売されると、統一された規格に沿った部品が世界的に豊富に流通し、コストの面でも有利なPC/AT互換機が売れるようになった。また、CPUやバス、グラフィックカード、ハードディスクの高速化とメモリの低価格化により、日本国産機が特殊なハードで実現していた機能をソフトによる「力技」でも実現できるようになった。
 
[[Macintosh]]は[[漢字Talk|漢字Talk7]]が発売された頃からハードウェアの値下げと日本語処理機能の充実により[[マルチメディア]]に優れたパソコンとして認知され、シェアを伸ばしていった。
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NECはWindows向けに性能を上げた[[PC-9821シリーズ]](1992年)を発売したが、これらの影響を受けて次第に部品の大部分がPC/AT互換機と共通になっていった<ref name=":5" />。FM-Rで唯一PC-9800に食い下がっていた富士通は既存の機種の機能強化と並行してPC/AT互換機[[FMV]](1993年)の販売を開始し<ref>『パソコン革命の旗手たち』 pp.280-283 「富士通ショック」</ref>、次第に独自路線を縮小していった。
 
[[1995年]]にGUIを大改良した[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]の発売が開始されると、日本でも新聞やTVのニュース番組で大きく取り上げられたため新規のパソコンユーザを増やす起爆剤となった<ref>{{Cite web|url=http://www.wincons.or.jp/view/vol18/WV-08.html|title=Windows View Vol.18 : WinViewインフォメーション&レポート|accessdate=2016-11-03|date=1995-11|publisher=Windowsコンソーシアム事務局}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=|year=2006|title=パソコン業界のあの事件を追え!:ウインドウシステムとWIndows 95|journal=ASCII|volume=30|issue=8|page=|pages=72-73|publisher=アスキー}}</ref>。さらに98互換機のエプソンもPC/AT互換機に転換し日本国内独自パソコンはホビーユースを含めて終焉へ向かった。残ったNECも[[1997年]]ついにPC/AT互換機である[[PC98-NXシリーズ]]への転換を表明した。この頃までのパソコンは、主に[[ワードプロセッサ]]、[[表計算ソフト]]、[[データベース]]などのオフィスアプリケーションを利用するツールとして普及していった<ref>{{Cite journal|和書|year=2006|title=パソコン業界のあの事件を追え!:オフィスとパーソナルコンピュータ|journal=ASCII|volume=30|issue=8|pages=74-75|publisher=アスキー}}</ref>。
[[ファイル:CF-S21 Panasonic.jpg|サムネイル|パナソニック [[Let'snote]](1998年)]]
[[1998年]]に[[iMac]]が発売された頃からパソコンが[[インターネット]]を利用する端末として台頭する<ref>{{Cite web|url=http://www.kogures.com/hitoshi/history/internet/|title=インターネットの歴史概要<通信の歴史<歴史<木暮仁|accessdate=2016-11-08|publisher=木暮仁}}</ref>。また、Windows・Macintoshのほか、[[Linux]]・[[BSD]]などの[[Unix系]]OSも新たに台頭した。これらの普及は[[ワークステーション]]や[[オフィスコンピュータ]]の領域をも侵食し、[[クライアント (コンピュータ)|クライアント]]用途だけでなくパソコンで[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]の[[サーバ]]を組むことも普通に行われるようになった。
 
なおWindowsにはNT系列と95系列とふたつの系列があったが、Windows XP以降はNT系列に統合されている。