「明帝 (北周)」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
37行目:
[[陳 (南朝)|陳]]軍が侵攻してきた際は自ら[[甲冑]]を着け、[[太白山]]の東方で迎え撃っている。続いて[[吐谷渾]]に侵攻されたが、これは[[大司馬]]博陵公の[[賀蘭祥]]にこれを迎え撃たせた。
また[[周暦]]を作らせた。柱国、輔城公宇文邕を大[[司空]]に任じた。西魏の時代の盗みや着服はその罪に問責しないことにしたが、追求する者がいて事実関係が明らかになった場合は、法に定めてあるようにそれ相応の補償をさせるように勅令を出した。賀蘭祥は[[
激しい長雨があったので、[[公卿]]
武成2年([[560年]])、突厥の使者を再び群臣とともに迎えた。
|