「明帝 (北周)」の版間の差分

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[[陳 (南朝)|陳]]軍が侵攻してきた際は自ら[[甲冑]]を着け、[[太白山]]の東方で迎え撃っている。続いて[[吐谷渾]]に侵攻されたが、これは[[大司馬]]博陵公の[[賀蘭祥]]にこれを迎え撃たせた。
 
また[[周暦]]を作らせた。柱国、輔城公宇文邕を大[[司空]]に任じた。西魏の時代の盗みや着服はその罪に問責しないことにしたが、追求する者がいて事実関係が明らかになった場合は、法に定めてあるようにそれ相応の補償をさせるように勅令を出した。賀蘭祥は[[トウ陽チョネ県|洮陽]][[臨潭県|洪和]]の2城を攻め落としたので、吐谷渾は逃げ帰った。[[西域]]の[[高昌]]国が使者を来朝させて朝貢した。
 
激しい長雨があったので、[[公卿]][[卿]][[大夫]][[士]]のみならず、各地の[[刺史|]]・庶民にいたるまで、天子のみに直接挙げる上奏文、直言をするよう命じる勅令を出した。災害の様子を官吏を各地に派遣して掌握させた。そして、宇文泰が夏州に攻め込んで征服したときに戦死した遺族に金銭や絹を与えたように、この災害で妻子を失ったものには同じように金銭や絹を与える勅令を出した。この年、天王を改めて皇帝を称し、父の文王・宇文泰を文皇帝と追尊した。また、[[武成 (北周)|武成]]元年と改元した。
 
武成2年([[560年]])、突厥の使者を再び群臣とともに迎えた。