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* [[1984年]][[2月1日]]シングル「[[モニカ (曲)|モニカ]]」でデビュー<ref>[http://www.musicman-net.com/artist/33005.html 吉川晃司デビュー30周年 - Musicman-NET]、[http://www.wowow.co.jp/music/kikkawa/ 特集:吉川晃司 30th Anniversary Special|WOWOWオンライン]、[http://www.musicman-net.com/relay/103-5.html 第103回 木崎 賢治 氏 | Musicman-NET 5. 吉川晃司の成功、そして名曲『そして僕は途方に暮れる』の誕生]</ref><ref name="npn20161105">[http://npn.co.jp/article/detail/86316359/ 【帰ってきたアイドル親衛隊】役者やってる吉川晃司も嫌いではないが、やはりステージで暴れている姿が一番だ]</ref>。この曲は、同年2月11日公開の主演映画『[[すかんぴんウォーク]]』の主題歌でもあった。以降「[[サヨナラは八月のララバイ]]」、「[[ラ・ヴィアンローズ (吉川晃司の曲)|LA VIE EN ROSE]]」、「[[You Gotta Chance 〜ダンスで夏を抱きしめて〜|ユー・ガッタ・チャンス]]」([[オリコンチャート|オリコン]]3週連続1位)、「[[にくまれそうなNEWフェイス]]」(オリコン1位)、「[[RAIN-DANCEがきこえる]]」(オリコン4位)、「[[キャンドルの瞳]]」(オリコン2位)と立て続けにヒットシングルをリリースし、1984年の[[日本歌謡大賞]]最優秀新人賞、[[日本アカデミー賞]]新人賞など歌手と俳優の両部門で8つの新人賞を独占<ref name="TALKING" />。
* [[1985年]]の始めに、デビュー1年目では史上2人目の[[日本武道館]]公演を行った{{Refnest|group="注"|1人目は[[原田真二]](1978年7月24日<ref>[https://www.amazon.co.jp/dp/B0007NDYSU Amazon.co.jp: 原田真二 OUR SONG and all of you 〜Live at 武道館]</ref>)。}}。その他、初期に行われた学園祭コンサートで、体育館にある[[緞帳]](どんちょう)にぶら下がり、緞帳をビリビリに破いてしまったことがある。その弁済金は1,000万円だったという{{#tag:ref|本人が『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも]]』に出演した際に告白し、「緞帳を破って100万円の借金を作ってしまった」と言っていたが、その後ファンクラブの会報誌で「1,000万円」と訂正した。|group="注"}}。暮れには[[NHK紅白歌合戦]]に出場した。
* [[1987年]]に発売したシングル「[[MARILYNE]]」は、当時の恋人である女優の石原真理子([[石原真理]])との恋愛実体験を歌詞にした曲であったことが判明<ref name="ゲンダイ2006">『[[日刊ゲンダイ]]』、2006年12月5日5面、6日5面、8日21面</ref>。[[2006年]]に石原が[[暴露本]]『[[ふぞろいな秘密]]』を発売した際に、石原の過去の13人の交際相手として名前が出され、石原は吉川を玉置浩二以外に「結婚をしてもいいかな」と意識したと書いた。吉川は事務所を通じて「交際をしていたのは事実。「MARILYNE」の[[ミュージック・ビデオ|プロモーションビデオ]]には彼女も出演しているはずです」とコメントを出した<ref name="ゲンダイ2006" />。吉川本人が[[明石家さんま]]のラジオで、石原のことを「憧れの人」と呼び、「悲しいことや楽しいことも彼女とは憧れの形で実現出来る」と、石原の存在は吉川の理想であることを語った。
* ナベプロは芸能プロダクションであるため、歌だけでなく[[バラエティ番組]]にも出なければいけないが、当時はそれが嫌で、人前に出て笑うことは一切できなかった。そのため渡辺晋にいつも「独立させて下さい」とお願いしていた<ref name="愚66">[[#愚]]pp.66-68</ref>。「インターナショナルで通用する映画を作りたいと思っている。その映画に出たら、独立させてやるから」と言われ、渡辺からは独立を承知してもらい[[1987年]]、日本・[[イタリアの映画|イタリア]]合作映画『[[シャタラー]]』に出演した。しかし撮影途中に渡辺が亡くなり、映画の内容も企画も大幅に変更されて、当初予定された物とは全く違う惨憺たる作品になってしまった<ref name="愚66" />。ガンの末期にあった渡辺の最期に近い頃の言葉は「吉川は元気でやっているか、イタリアで?」であったという。その言葉は胸にズシッと響き、毎年何度も足を運ぶ渡辺の墓参りでは、渡辺から叱咤激励されているような気がするという<ref name="愚66" />。
* [[1988年]]に一時活動を停止した後、渡辺プロダクションから子会社独立と言う形で22歳のとき独立<ref name="president218" />、マネージャーの河村嚴生が代表取締役社長のセブンスエンタープライズ所属になる。レコード会社を[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]に移籍。