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== 経歴 ==
==== 体操嫌いの文学少女(1880-1904) ====
[[1880年]](明治13年)[[12月5日]]に[[宮城県]][[志田郡]]桑折村(現・大崎市三本木桑折)にて父・保治、母・キンの長女として生まれる<ref name="jwcpe"/>{{sfn|西村|1983|pp=7-9}}。三本木は豊かな自然に囲まれた山あいの里であり、トクヨはどんな花の名所よりも美しいと讃える歌を残している{{sfn|西村|1983|p=13}}。[[1887年]](明治20年)、父の赴任地・[[松山町 (宮城県)|松山]]の松山尋常高等小学校(現・大崎市立松山小学校)に入学するが、間もなく父の転勤により三本木尋常高等小学校(現・大崎市立三本木小学校)に転校する{{sfn|西村|1983|p=13}}。三本木小では[[尋常科]]4年・[[高等科]]4年の計8年間学び、成績は普通であったが、「女子には高度な[[学問]]は不要」と考える当時の風潮{{#tag:ref|三本木小高等科の同級生は7、8人しかおらず、女子児童はトクヨだけであった{{sfn|西村|1983|p=14}}。|group="注"}}からすると、高等科をきっちりと卒業させた二階堂家は教育熱心であったことが窺える{{sfn|西村|1983|p=13}}。高等科4年生([[1894年]]=明治27年)の[[夏休み]]に叔父の佐藤文之進([[仙台市立立町小学校]]教師)から『[[日本外史]]』を習ったことで学問に目覚め{{sfn|西村|1983|pp=14-15}}、文学少女に成長した<ref name="jwcpe"/>。なお、小学校時代の8年間、トクヨは[[体操]]([[体育]])の授業を受けたことがなかった{{sfn|西村|1983|p=37}}。
 
[[1895年]](明治28年)に三本木小高等科を卒業し、予備講習会を経て、同年[[11月10日]]に[[尋常小学校]]本科准教員の免許を取得する{{sfn|西村|1983|pp=15-16}}。地元の三本木小学校に就職し、坂本分教場で准教員となった{{sfn|西村|1983|p=16}}。坂本分教場では老教師が教えていたため、「[[鬼ごっこ]]をしましょう」と誘う15歳の「二階堂先生」の出現に児童は驚いた{{sfn|西村|1983|p=16}}。分教場での教師生活を続けるうちに更に上級学校へ行って学問を身に付けたいという思いが募ったが、[[宮城師範学校|宮城県尋常師範学校]](宮城師範、現・[[宮城教育大学]])は女子部を廃止しており、トクヨは進学ができなかった{{sfn|西村|1983|pp=16-19}}。しかしトクヨは諦めず、全く縁のない[[福島民報]]に手紙を送って[[福島師範学校|福島県尋常師範学校]](福島師範、現・[[福島大学]]人文社会学群)への入学の斡旋を依頼した{{sfn|西村|1983|pp=19-20}}。福島師範には[[福島県]]民でないと入学できなかったことから、[[戸籍]]上[[養子縁組]]すれば面倒を見るという返事を受け取ったトクヨは、これを受諾して[[1896年]](明治29年)3月に福島民報の[[社長]]・[[小笠原貞信 (政治家)|小笠原貞信]]の養女となり、小笠原トクヨを名乗った{{sfn|西村|1983|pp=20-21}}。こうして同年4月に福島師範へ入学、[[1899年]](明治32年)3月に[[高等小学校]]本科正教員の資格を得て卒業{{#tag:ref|在学中に校名変更があり、卒業時の校名は福島県師範学校であった{{sfn|西村|1983|p=22}}。|group="注"}}した{{sfn|西村|1983|p=22}}。卒業後の赴任地は[[安達郡]][[油井村]]の油井尋常高等小学校(現・[[二本松市立油井小学校]])で、トクヨは[[訓導]]として尋常科2年生の[[学級担任|担任]]になった{{sfn|西村|1983|pp=23-24}}。担任クラスには長沼ミツという児童がおり、その姉で高等科1年生の智恵子とも親しくなった{{sfn|西村|1983|p=24}}。智恵子とは、後に[[高村光太郎]]の妻になる[[高村智恵子]]のことであり、[[下宿]]を訪ねたり、一緒に安達ケ原を[[散歩]]したりするなどトクヨに懐いていた{{sfn|西村|1983|p=24}}。
 
1900年(明治33年)4月、油井小を休職し、[[東京女子高等師範学校|女子高等師範学校]](女高師、現・[[お茶の水女子大学]])文科に入学する{{sfn|西村|1983|p=27}}。当時の女高師は[[高嶺秀夫]]が校長を務め、[[和歌]]の[[尾上柴舟]]、体操の[[坪井玄道]]をはじめ、[[安井てつ]]{{#tag:ref|安井は[[クリスチャン]]であり、トクヨは安井の下で[[聖書]]の勉強をし、『[[ヨブ記]]』を英語で読みこなすことができた{{sfn|穴水|2001|p=50}}。この経験が金沢での宣教師との接触につながり、体操教師トクヨの誕生に至るのであった{{sfn|穴水|2001|pp=49-51}}。|group="注"}}・[[後閑菊野]]らの授業を受けた{{sfn|西村|1983|p=29}}。トクヨは特に尾上柴舟の授業に魅了され、自作の歌を褒められて「小柴舟」の名をもらうほどであった{{sfn|西村|1983|pp=29-30}}。一方で体操の授業には全く関心がなく、欠課や見学など何とか授業に出ないようにしていた{{sfn|西村|1983|p=30}}。
 
女高師時代のトクヨは毎年学年末に不運に見舞われるという[[ジンクス]]があった{{sfn|西村|1983|p=30}}。1年生の時は足裏の怪我が原因で骨が腐って40日の闘病生活を送り、2年生は[[チフス]]に感染して4か月間[[茅ヶ崎市|茅ヶ崎]]の病院に入院、3年生は養父・小笠原貞信が死去、4年生は実父・保治が死去した{{sfn|西村|1983|pp=31-35}}。このうち1・2・4年生の時には[[定期考査|学年末試験]]を受けることができなかった{{sfn|西村|1983|p=35}}。本来、試験を受けなければ進級できないが、トクヨは成績が良かったからか、試験免除で進級している{{sfn|西村|1983|p=35}}。特に4年生の試験は卒業がかかったものであり、トクヨは留年覚悟であったが、学校は試験を免除し卒業を認めた{{sfn|西村|1983|p=35}}。こうして1904年(明治37年)3月、[[教育学|教育]]・[[倫理 (科目)|倫理]]・体操・[[国語 (教科)|国語]]・[[地理 (科目)|地理]]・[[歴史教育|歴史]]・[[漢文学|漢文]]の7科目の師範学校女子部・高等女学校の教員免許を取得して女高師をストレートで卒業した{{sfn|西村|1983|p=36}}。
 
=== 体操教師への覚醒(1904-) ===
女高師の卒業後は[[教師]]となり、最初の赴任先は石川県立高等女学校(現・[[石川県立金沢二水高等学校]])であった{{sfn|西村|1983|p=36}}。赴任前に「主として体操科を受け持ってほしい」という私信を受け取っていたが、トクヨは何かの間違いだろうと思い、最初の校長{{#tag:ref|当時の校長は[[体操伝習所]]の卒業生である土師雙他郎(はじ そうたろう、1853 - 1938)であった{{sfn|穴水|2001|p=41, 43}}。土師は体育を重視しており、トクヨの赴任前年に体操科の中心を担った高桑たまが病死したため、トクヨに高桑と同様の役回りを期待していた{{sfn|穴水|2001|pp=44-45}}。|group="注"}}からの言葉でそれが事実だと知ると絶句した{{sfn|西村|1983|pp=36-38}}。本業の国語の教師は十分いる一方、体操の免許を持った教師は不足していたから{{#tag:ref|実際には国語の担当教師は2人しかおらず、土師校長がトクヨを納得させるための方便であったと考えられる{{sfn|穴水|2001|p=46}}。|group="注"}}であった{{sfn|西村|1983|p=36}}。体操のことを「義理にもおもしろいとは云えぬ代物」、「怒鳴られて馬鹿馬鹿しい」、「およそ之れ程下らないものは天下にあるまい」と酷評していたトクヨにとって体操教師を命じられたことは不本意であるばかりでなく、大恥辱である、世間に対して面目を失う、とまで思っていた{{sfn|西村|1983|pp=39-40}}。しかし、女高師の卒業生は5年間任地で教職を全うする義務を負っていたこと、女高師時代のジンクスから翌[[1905年]](明治38年)の春に自分は死ぬのだろうと思っていたことで、決死の覚悟で体操を教えることにした{{sfn|西村|1983|p=40}}。最初は週13時間の授業に身も心も疲弊したが、数か月すると自身の体調が良くなっている{{#tag:ref|この文章の元になっているのは、イギリス留学から帰国した後のトクヨが自身の転換点として言及したものである{{sfn|穴水|2001|p=15}}。文学好きのトクヨは悲劇のヒロインに自己同化する傾向があり、誇張された表現とみるべきである{{sfn|穴水|2001|pp=15-16}}。周囲の人からは金沢で初めて洋装した、純白の体操着を身に付けた颯爽とした印象の人だと見られており、身も心も病んでいるようには見えていなかった{{sfn|穴水|2001|p=16}}。|group="注"}}ことを発見し、夏には[[井口阿くり]]{{#tag:ref|井口は1903年(明治36年)に女高師教授に着任したので、トクヨが4年生の時と重なっているが、井口は国語体操専修科を主に担当したため、文科のトクヨと接点はなかった{{sfn|西村|1983|p=38}}。|group="注"}}が講師を務める3週間の体操講習会を受講し、スウェーデン体操を学んだ{{sfn|西村|1983|pp=41-42}}。
 
井口の講習を受けたトクヨは素人では到底教えられないと痛感し、体操を学びたいと思うようになった{{sfn|西村|1983|p=42}}。幸運にも、体操専門学校を卒業した[[カナダ人]][[宣教師]]のミス・モルガンが[[金沢市]]に[[キリスト教]]を布教しに来ていたため、トクヨは1日おきに30分の個人レッスンをモルガンの家の庭で受け始めた{{sfn|西村|1983|pp=42-43}}。モルガンの教える体操はスウェーデン体操をドイツ体操を混合した独自のもので、指導のうまさと相まって、トクヨはどんどん体操にのめり込んでいった{{sfn|西村|1983|pp=43-44}}。ついには石川県立高等女学校の全生徒を対象に週28時間もの体操の授業を受け持つ{{#tag:ref|本業の[[国語]]でも50人の作文指導を行っている{{sfn|西村|1983|p=45}}。|group="注"}}に至り、[[石川県]]の郡部を回って小学校教師向けに体操の実地指導を行うようになった{{sfn|西村|1983|pp=44-45}}。この頃の教え子に時の[[石川県知事]]・[[村上義雄]]の娘がおり、父娘ともどもトクヨの体操に魅了され、知事の後ろ盾を得て[[運動会]]ではプロの[[楽隊]]を入れて体操を行うという企画を行ったり、生徒を男役と女役に分けて[[カドリーユ]]を踊らせたりした{{sfn|西村|1983|p=47}}。この運動会では、入場券を得られなかった[[第四高等学校 (旧制)|第四高等学校]](現・[[金沢大学]])の学生が塀を乗り越えて乱入し、[[警察官]]が監視に当たるほどの大変な評判を呼んだ{{sfn|西村|1983|p=47}}。
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** 表紙の著者名は「二階堂豊久」名義([[奥付]]は「二階堂トクヨ」)。書名の「通俗」は一般向けに啓蒙する、という意味合いで付されたが、後に古い学説に囚われた頭の固い専門家は対象外である、という意味を帯びるようになっていった{{sfn|穴水|2001|p=22}}。
* {{cite book|和書|title=足掛四年 英國の女學界|publisher=東京寶文館|date=1917-09-26|page=392|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941386}}{{全国書誌番号|43010445}}
** 表紙の著者名は「櫻菊女史」名義(奥付は「二階堂トクヨ」)。留学の記憶がまだ鮮明に残っている時期に執筆され、読み物風の体裁から、留学経験を生々しく伝えるものである{{sfn|穴水|2001|p=71}}
* {{cite book|和書|title=男女幼學年兒童に科すべき模擬體操の實際|publisher=東京敎育研究會|date=1918-05-22|page=151|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/939717}}{{全国書誌番号|43009681}}
** 著者名は表紙・奥付ともに「二階堂豊久」名義。
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== その他 ==
東京女子高等師範学校の生徒時代には[[安井てつ]]の指導を受けた{{sfn|曽我・平工・中村|2015|p=1997}}。安井は後に二階堂体操塾の理事を務めることでトクヨを支えた{{sfn|曽我・平工・中村|2015|p=1997}}。
 
金沢で初めて洋服を着た人であると言われている{{sfn|穴水|2001|p=16}}。
 
二階堂が油井尋常高等小学校(現・二本松市立油井小学校)で訓導をしていた頃に親しくなった[[高村智恵子]]は、後に[[高村光太郎]]と結婚し、二階堂のイギリス留学に際して2人で[[横浜港]]まで見送りに行っている{{sfn|西村|1983|p=1, 24}}。