「日本の民族問題」の版間の差分

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{{出典の明記| date = 2019年4月}}
[[日本人]]が大多数を占める単一民族国家である日本では、外国人や混血児に対する人種や皮膚の色に基づく差別はしばしば存在する。大抵の外国人や混血児が学校や就職で差別的な待遇を受けた経験があると語る。
 
=== 異文化との最初の交わり ===
[[16世紀]]、[[17世紀]]の日本では日常人々が外国人に接することは皆無であった。それでも、わずかに海外[[貿易]]をしている港市や都に住む[[貴族]]、[[武士]]、[[商人]]、[[町人]]、一般の[[民衆]]は[[ポルトガル人]]に接する機会があった。特に[[大村純忠]](肥前大村)、[[大友義鎮]]([[宗麟]],[[豊後]])、[[高山長房]]([[右近]],[[摂津]])を初めとする[[キリシタン大名]]の[[領地]]に住む住民は、[[イエズス会]]の[[宣教師]]と接触したものも少なくない。宣教師たちが日本を布教の地として活動した[[安土桃山時代]]は、日本人がもっとも頻繁に西洋の人々、とりわけポルトガル人に接した最初の時期であった。[[織田信長]]が[[キリスト教]]を厚く保護し、布教活動を援助したことは、ポルトガル人の日本への渡来と居住を可能にした最大の要因であった。イエズス会の宣教師が、毎年日本における布教活動の状況を克明に記して[[インド]]の[[ゴア]]や本国の敦会本部に送った「[[日本報告]]」こそ、最初期の日本人と西洋人の出会いを生き生きと描写している。当時日本人にとって、西洋人はきわめて珍しく、好奇の的であった。硬らが同伴していた[[黒人]]や「肌の黒い人」もまた日本人にとっては初めて見る対象だった。
[[西欧諸国]]の[[大航海]]と[[植民地活動]]を背景にした[[アジア]]の進出が、東アジアでももっとも遠い東端の未知の[[島国]][[日本]]と[[ヨーロッパ諸国]]との出会いを生んだのである。西洋との遭遇は、戦に明け暮れていた[[戦国武将]]にとっては、貿易上の関心を呼び起こすことはあっても、彼らの日本中心の[[世界観]]を変え、[[全国統一]]を目指すその[[野望]]を乱すほど重要な政治上の問題になることはなかった。
=== 西洋人に対する意識 ===
「毎日外国奉行から合い言葉が来る。ソレを知らんものは鏡殺されてもしかたがないですから、異人の立ち番の所を通ると、異人は銃を横え、鈍(のろま)な日本語で『だれだア』という。ソコで合言葉をいうのです。異人はその当時毛唐人といい、夷秋といい、禽獣祝していたのに、ソレを警固したり、後生大事に尊重するのだから、志ある武士は憤慨しない訳のものでないんですが、私の藩にも伊藤軍兵衛というのがあって、僚慨家でした」([[篠田鉱造]],1996)。日本人は西洋人または外国人は異人であり、毛唐として蔑祝し、見下している。「陛下行幸のみぎりなど、御送迎に出かけたことがあるO途中外国人が馬車で、コノ行列の間を縫ったから、承知しない。『この毛唐奴(め)が』と、その馬車を大勢で鼻伏させてしまった」(篠田鉱造,1996)。[[明治]]10年代のことである。明治21年7月15日、福島県の会津磐梯山が噴火した(新聞集成明治編年史,第7巻)。噴火のすさまじさを生々しく伝える当時の新聞は、驚天動地、磐梯山の噴火などだれも想像したこともなく、毛唐人のたわごとであったと書いている。
これが西洋人、外国人観の底最にある「[[異人]]」・「[[毛唐]]」意識であるとされる。
 
=== 部落問題、特別永住者と人種差別撤廃条約 ===