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Amagiri (会話 | 投稿記録)
→‎1944年以降: 登作戦、105航空基地隊について
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1944年1月24日、204空は消耗により幹部がトラック島へ後退。生存204空搭乗員の大半は253空へ転属<ref>ラバウル空戦記、 零戦撃墜王、 あゝ青春零戦隊、 雑誌 丸 ソロモンに死闘する零戦隊、 日本海軍戦闘機隊</ref>。1月25日、ラバウル南東方面司令長官の[[草鹿任一]]中将の要請で2航戦がラバウルに着任したが、1ヶ月後には三分の一に消耗<ref>雑誌 丸 ラバウル航空魂未だ健在なり、 零戦撃墜王</ref>。
 
2月17日、米機動部隊による[[トラック島空襲]]を受ける。ラバウル向けの補給用零戦270機が地上破壊され、航空機は全滅。18日、前日に続き空襲砲撃で湾内の艦船も多数沈没しトラック島は補給基地としての機能を完全に失った<ref>羽切松雄『さらばラバウル』山王書房76頁</ref>。20日、253空と2航戦の全機(戦闘機約30機・陸攻数機)がトラック島へ後退<ref>聯合艦隊、 雑誌 丸 ラバウル航空魂未だ健在なり、 日本海軍戦闘機隊、 雑誌 丸 第151偵察隊ラバウル戦陣録</ref>。17日の米機動部隊大空襲によるトラック島の壊滅的被害を補うため、11航艦および2航戦所属の全航空隊はトラック島へ後退となる
 
トラック島の壊滅的被害を補うため、11航艦および2航戦所属の全航空隊はトラック島へ後退することになった。2月20日、南方最前線253空と2航戦根拠地可動全機(戦闘機約30機・陸攻数機)がトラック島へ後退<ref>聯合艦隊、 雑誌 丸 ラバウル航空魂未った健在なり、 日本海軍戦闘機隊、 雑誌 丸 第151偵察隊ラバウル戦陣録</ref>。2月29日の戦時編制改定で2航戦は機動部隊に復帰、ラバウル航空隊の中核であった11航艦は、麾下の26航戦(751空含む南東方面から正規編入)が14艦に転出した。204と582空は解され、11航艦の下に引き25航戦(151空・251空・253空)が形式げては残ったが地上要員が主体となった<ref name="戦史叢書096p483">防衛庁防衛研修所戦史室 『南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1976年、483-485頁。</ref>。この時点で、ラバウル航空隊は実質的に終焉を迎えた。ラバウル航空隊の損失機数は、戦闘機1,467機、攻撃機1,199機、その他267機の計2,935機だった<ref>羽切松雄『さらばラバウル』山王書房76頁</ref>。
 
==== 連合軍の迂回方針 ====
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==== 孤立以降 ====
1944年2月下旬の基地航空部隊の可動機のバウルック島への撤退と1944年2月29日のアメリカ軍のアドミラティ諸島への上陸によって、ラバウルは完全に孤立化した<ref>奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』学研M文庫426頁</ref>。同じころ、ニューギニア方面も航空基地としての機能を失いつつあり、ラバウルを中心とする組織的な航空作戦は終了した<ref>奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』学研M文庫427頁</ref>。戦闘機がなくなり、港内では、敵機の監視が厳しく、小船の航行も困難になった。ラバウルには第九五八海軍航空隊が、ブインには第九三八海軍航空隊が残留し、両隊合わせて水上機十数機が残されていた<ref>奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』学研M文庫428頁</ref>。敵の戦闘機から隠れながら陸攻、飛行艇、水上機がトラックとの間を往来して、[[草鹿龍之介]]少将や[[富岡定俊]]少将など所要の人員を内地に送り返していた<ref>奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』学研M文庫429頁</ref>。
 
同年3月2日、連合艦隊はラバウルに残存する搭乗員を救出する「登作戦」を発令した。敵の戦闘機から隠れながら陸攻、飛行艇、水上機がトラックとの間を往来して、[[草鹿龍之介]]少将や[[富岡定俊]]少将など所要の人員を内地に送り返した<ref>奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』学研M文庫429頁</ref>。登作戦の結果、飛行艇で運ばれた500余名などラバウルの残存搭乗員はほぼ全員が収容された<ref name="戦史叢書096p483" />。[[伊号第四十一潜水艦]]も搭乗員50名・航空廠関係者を運んでいる。しかし、2航戦と751空の地上要員約400人は曳船「長浦」及び輸送船「興和丸」「黄海丸」から成る護送船団(第38号駆潜艇・第48号駆潜特務艇護衛)でラバウルを出た後、空襲及び米艦隊との交戦で全滅した。
ラバウルにいた第一〇八海軍航空隊廠長の山川義夫大佐以下約3500名の整備や技術の関係者は、損傷した飛行機の修復を行い、まず約10機の零戦を、後に九七艦攻2機を作成した<ref>奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』学研M文庫429頁</ref>。3月2日、零戦7機は敵編隊に攻撃して5機撃墜を報告<ref>奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』学研M文庫429頁</ref>。3月15日、水上機隊がブーゲンビル島ブインへ再進出<ref>雑誌 丸 第151偵察隊ラバウル戦陣録</ref>。現地残存201空・204空・582空残留員で再編成される。ブーゲンビル島南端旧ブイン基地に残留した第八艦隊司令部、第一根拠地隊司令部、佐世保鎮守府第六特別陸戦隊は水偵機をジャングルの隠れた入江・川に引き込み、隠密作戦続行<ref>雑誌 丸 第151偵察隊ラバウル戦陣録</ref>。3月8日-25日、日本陸軍第17軍、タロキナ飛行場へ総攻撃。ラバウル航空隊は第17軍司令官百武中将の要請に応じ爆装零戦によるタロキナ飛行場夜間爆撃を行うも失敗<ref>雑誌 丸 ソロモンに死闘する零戦隊、 最後のゼロファイター</ref>。
 
ラバウルにいた第一〇八海軍航空隊廠長の山川義夫大佐以下約3500名の整備や技術の関係者が残された。彼らは、損傷した飛行機の修復を行い、まず約10機の零戦を、後に九七艦攻2機を作成した<ref>奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』学研M文庫429頁</ref>。1944年2月28日の可動機数は零戦16機・夜戦1機に達した<ref name="戦史叢書096p483" />。3月2日、零戦7機は敵編隊に攻撃して5機撃墜を報告<ref>奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』学研M文庫429頁</ref>。3月15日、水上機隊がブーゲンビル島ブインへ再進出<ref>雑誌 丸 第151偵察隊ラバウル戦陣録</ref>。現地残存201空・204空・582空残留員で再編成される。ブーゲンビル島南端旧ブイン基地に残留した第八艦隊司令部、第一根拠地隊司令部、佐世保鎮守府第六特別陸戦隊は水偵機をジャングルの隠れた入江・川に引き込み、隠密作戦続行<ref>雑誌 丸 第151偵察隊ラバウル戦陣録</ref>。3月8日-25日、日本陸軍第17軍、タロキナ飛行場へ総攻撃。ラバウル航空隊は第17軍司令官百武中将の要請に応じ爆装零戦によるタロキナ飛行場夜間爆撃を行うも失敗<ref>雑誌 丸 ソロモンに死闘する零戦隊、 最後のゼロファイター</ref>。4月15日の残存可動機は零戦4機・夜戦1機となった<ref name="戦史叢書096p483" />。
 
同年5月5日に形式上ラバウルに残存していた25航戦は解隊され、麾下の151空・251空・253空は22航戦に転属となった。25航戦司令官の上野敬三少将もこれに先立つ3月8日にラバウルを離れていた。同年6月15日、各隊のラバウル残留員(主に地上要員)をもって第105航空基地隊が開隊されて、旧151空副長の堀知良少佐が105基地隊副長兼飛行長に就任、同隊が終戦までラバウル方面の航空作戦に従事することになった<ref name="戦史叢書096p483" /><ref>雑誌 丸 第151偵察隊ラバウル戦陣録、雑誌 丸 ソロモンに死闘する零戦隊、 最後のゼロファイター</ref>。
 
6月、ラバウルにて105空を開隊<ref>雑誌 丸 第151偵察隊ラバウル戦陣録、雑誌 丸 ソロモンに死闘する零戦隊、 最後のゼロファイター</ref>。
[[あ号作戦]]の直前、海軍が米海軍の主力の動向を探っていることを知った南東方面艦隊司令部は、5月31日に零戦2機でアドミラルティ泊地を偵察して連合艦隊司令部に報告。同方面への偵察はその後もたびたび行われた<ref>奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』学研M文庫430-431頁</ref>。10月、陸軍の[[独立飛行第83中隊]]により修理された一〇〇式司偵が完成し、トラック島で[[キニーネ]]を受領するために往復する<ref>雑誌 丸 第151偵察隊ラバウル戦陣録</ref>。
 
1944年10月15日、レイテ作戦に関連してアドミラルティ泊地を偵察<ref>奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』学研M文庫431頁</ref>。11月9日、零戦3機(60キロ爆弾2発装備、一番機は復座改造型)にてアドミラルティのハイン飛行場を爆撃<ref>草鹿任一『ラバウル戦線異状なし』光和堂、1958年</ref>。1944年末、ブイン水上基地の938空解散、残存人員はブーゲンビル島内で第85警備隊になる編入された。1945年には、ニューブリテン島内前線拠点での地上戦続行中に小守備隊の玉砕が相次いだ。4月28日、ラバウルの復元[[九七式艦上攻撃機]]2機でアドミラルティ泊地を夜間雷撃<ref>雑誌 丸 第151偵察隊ラバウル戦陣録、最後のゼロファイター</ref>。7月中旬、ブーゲンビル島南端旧ブイン基地員は復元零戦二二型1機を密林の中で完成<ref>雑誌 丸 ソロモンに死闘する零戦隊</ref>。
 
1945年8月、海軍105基地隊の零戦と陸軍独飛83中の100式司偵でアドミラルティ泊地へ黎明偵察を実施。[[第九五八海軍航空隊]]の[[零式水上偵察機]]は補給と偵察を続行<ref>雑誌 丸 第151偵察隊ラバウル戦陣録</ref>。8月15日、終戦。残存していた海軍機は攻撃機1機、戦闘機2機、水上機2機<ref>草鹿任一『ラバウル戦線異状なし』光和堂、1958年</ref>、このうち飛行可能状態の零戦二一型と陸軍の一〇〇式司偵はオーストラリア軍に、ブインの零戦二二型はニュージーランド空軍に接収された。
 
== 評価 ==