「山田五十鈴」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Ambivalence (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
WP:DEADREF。注釈内の『日本労働年鑑』のところは、リンク先ウェブページに書籍としての書誌情報が載っているようなのでそれを記入。 |
||
46行目:
'''山田 五十鈴'''(やまだ いすず、[[1917年]][[2月5日]] - [[2012年]][[7月9日]])は、[[日本]]の[[俳優|女優]]、[[歌手]]。本名は'''山田 美津'''(やまだ みつ)。愛称は「'''ベルさん'''」。
戦前から戦後にかけて活躍した、昭和期を代表する映画女優の1人である。[[時代劇|時代劇映画]]の娘役を経て、[[溝口健二]]監督の『[[祇園の姉妹]]』で地位を確立。以来、優れた演技力で数多くの名作に出演した。[[1960年代]]以降は舞台女優として活動し、[[水谷八重子 (初代)|水谷八重子]]、[[杉村春子]]とともに「三大女優」と呼ばれた<ref name="経済新聞">
== 来歴・人物 ==
===映画界へ===
[[1917年]](大正6年)[[2月5日]]、[[大阪府]][[大阪市]][[南区 (大阪市)|南区]]千年町(現在の[[中央区 (大阪市)|中央区東心斎橋]])に生まれる。父の山田九州男{{Refnest|group="注釈"|[[1879年]](明治12年)[[5月1日]]、[[熊本市]]二本木の遊郭の生まれ。[[成美団]]を結成した[[高田実]]の弟子となり、[[1898年]](明治31年)に山田不二男の芸名で[[博多]]で初舞台を踏み、[[1900年]](明治33年)に高田の門に入って山田九洲男と改名。以後、新派の[[女形]]として活躍した<ref name="キネ旬" />。[[1948年]](昭和23年)、巡業先の[[明石]]で[[消化性潰瘍|十二指腸潰瘍]]のため死去。<ref>[[大笹吉雄]]『日本現代演劇史 昭和戦後篇I』、[[白水社]]、1998年、p.451</ref>}}は[[新派]][[俳優]]で、母の律は[[北新地]]の売れっ子[[芸者]]だった<ref name="経済新聞" /><ref name="キネ旬">[[#キネマ旬報1980|キネマ旬報1980]]、p.722</ref>。山田はその母の命で、[[数え年]]で6歳の時から[[常磐津節|常磐津]]、[[長唄]]、[[清元節|清元]]、[[日本舞踊]]の稽古を始めた<ref name="ノート">[http://www.kinenote.com/main/public/cinema/person.aspx?person_id=89165&key_search=%E5%B1%B1%E7%94%B0%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%88%B4 山田五十鈴]、[[キネマ旬報映画データベース|KINENOTE]]、2015年6月4日閲覧</ref>。
[[1924年]](大正13年)、関西に出稽古に来ていた[[清元寿兵衛|三世清元梅吉]]について本格的に清元を習い始める<ref name="キネ旬" />。[[1925年]](大正14年)、父が[[成美団]]に参加するため一家で上京して[[日本橋浜町]]の旅館に住み、[[中央区立久松小学校|久松小学校]]に入学するが、人気の落ち込んでいた父が仲間を集めて[[満州]]へ巡業に行ってしまい、旅館住まいが困難になったため、[[本郷区]]金助町の駄菓子屋の裏店に移住する<ref name="キネ旬" /><ref>[[#升本2003|升本2003]]、p.141</ref>。その後、[[永田町]]に2階借りし、母と共に清元梅吉の内弟子となった。[[1927年]](昭和2年)、師匠から清元梅美智の名を貰い、母娘揃って[[名取]]となる。後、母と[[宝塚]]に移り住み、清元の師匠をやって生計を立てた<ref>[[#升本2003|升本2003]]、p.142</ref>。
59行目:
[[1934年]](昭和9年)9月、日活を退社した[[永田雅一]]が[[第一映画社]]を設立し、伊藤、[[溝口健二]]、[[鈴木傳明]]らとともに同社に参加する。溝口監督の『マリアのお雪』『折鶴お千』に主演するが、後者の撮影中に同社に移籍した[[月田一郎]]の子を身籠り、翌[[1936年]](昭和11年)[[3月1日]]に美和子(後の[[瑳峨三智子]])を出産した<ref name="ノート" />。月田と結婚し、出産を機に女優を廃業しようと考えていたが、溝口監督の『[[浪華悲歌]]』『[[祇園の姉妹]]』に主演すると、その演技が高く評価され、生涯女優をやることを決意した。同年、第一映画が解散し、[[新興キネマ]][[東映京都撮影所|京都太秦撮影所]]に月田とともに移籍した。
[[1938年]](昭和13年)6月、[[東宝映画]]に入社。同社第1作は[[川口松太郎]]原作・[[成瀬巳喜男]]監督の『鶴八鶴次郎』で、[[長谷川一夫]]と三味線弾きの夫婦に扮し、気は強く情にはもろい女芸人気質を好演した<ref name="キネ旬2">[[#キネマ旬報1980|キネマ旬報1980]]、p.726</ref>。それ以来、『蛇姫様』『昨日消えた男』『[[婦系図#1942年版|婦系図]]』などで長谷川とコンビを組んだ。そのほか『新篇丹下左膳』シリーズでは[[丹下左膳]]役の大河内の相手役を演じ、[[渡辺邦男]]監督の『新妻鏡』、成瀬監督の『上海の月』ではヒロインを演じた。スターとして揺るぎない地位を占めたが、夫の月田は役に恵まれず、夫婦の収入に差が生じるようになり、夫婦仲も次第に亀裂が入る<ref name="キネ旬2" />。[[1940年]](昭和15年)には別居し、娘の美和子は月田家が引き取った<ref name="ノート" />。[[1942年]](昭和17年)に月田と離婚し、映画製作者の[[滝村和男]]と結婚するが、1年余りで離婚した<ref name="キネ旬2" /><ref>[[#山田2000|山田2000]]、p.160{{Full citation needed |title=「山田2000」というリンク先が本記事の中に存在していないようです。従って、書誌情報が全て不明です。『映画とともに』の2000年刊行のバージョンを指しているのかもしれませんが、確証がありません。 |date=2019-06-28}}</ref>。
1942年(昭和17年)、長谷川と共に[[新演伎座]]を結成。3月に[[東京宝塚劇場]]で[[菊田一夫]]作『ハワイの晩鐘』、川口作『お島千太郎』で旗揚げして以降、『伊那の勘太郎』『[[姿三四郎]]』などの舞台に立ち、[[太平洋戦争]]末期には軍の慰問にも回った<ref name="キネ旬2" />。翌[[1943年]](昭和18年)、[[花柳章太郎]]主演の『[[歌行燈 (1943年の映画)|歌行燈]]』に出演するが、この共演を機に花柳と恋愛関係に陥った<ref name="キネ旬2" />。
67行目:
[[1946年]](昭和21年)、[[豊田四郎]]監督の『檜舞台』が戦後第1作となり、戦中の『芝居道』以来共演のなかった長谷川とコンビを復活した。次いで[[衣笠貞之助]]監督の『[[或る夜の殿様]]』に出演し、同時に衣笠とも恋愛関係を結んだ<ref name="キネ旬2" />。同年10月、第2次[[東宝争議]]が発生。ストに反対する大河内に同調して、長谷川、[[高峰秀子]]、[[藤田進]]、[[黒川弥太郎]]、[[入江たか子]]、[[原節子]]、[[山根寿子]]、[[花井蘭子]]とともに[[十人の旗の会]]を結成して[[日本映画演劇労働組合]](略称:日映演)傘下の東宝従業員組合を脱退。これが元で翌[[1947年]](昭和22年)3月に[[新東宝映画製作所]]が創立された。しかし、すぐにその脱退組を離れてフリーとなり、製作が再開された東宝で衣笠監督の『[[女優 (1947年の映画)|女優]]』に[[松井須磨子]]役で主演した<ref name="キネ旬2" />。この頃、妻子ある衣笠と[[経堂]]に新居を建て、同棲生活をしている<ref>[[#升本2003|升本2003]]、p.176</ref><ref>[[鈴木晰也]]『人生仕方ばなし 衣笠貞之助とその時代』、2001年、[[ワイズ出版]]、p.135</ref>。
[[1950年]](昭和25年)、同年公開の『影法師』で共演した[[加藤嘉]]と結婚。共産党員だった加藤の影響で思想的に左旋回し、同年に日映演に加入{{
その間、娘の瑳峨三智子が[[東映]]に入社し、母娘が再会する。しかし、瑳峨は自分を棄てた山田を憎み撮影所で会ったときも母のことを「山田さん」と呼んでいたとされる。そのわだかまりは、瑳峨が山田より先に死を迎えるその日までついに消えなかった。[[1954年]](昭和29年)2月、加藤と家庭と仕事の不成立を理由に協議離婚<ref name="ノート" />。その直後に[[下元勉]]と結婚するが数年で離婚。
83行目:
2000年に発表された『[[キネマ旬報]]』の「[[キネマ旬報20世紀の映画スター#女優|20世紀の映画スター]]・女優編」で日本女優の6位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター女優」では第5位になった。[[2014年]](平成26年)発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本女優4位となっている<ref>{{cite web|url=http://www.kinenote.com/main/feature/vol45/|accessdate=2016-09-23|title=オールタイム・ベスト10 日本映画男優・女優 |work=[[KINENOTE]]|publisher=[[キネマ旬報社]]|date=2014-12}}</ref>。
[[2002年]](平成14年)4月に[[脳梗塞]]を発症、この年を最後に公の場に姿を見せることはなかったが<ref name="nikkansports-1" />、親交のあった[[松井誠]]によれば、[[2009年]](平成21年)の時点では復帰を目指してリハビリに励んでいたという<ref>
{{Wikinews|訃報 山田五十鈴さん - 女優として初めて文化勲章を受章}}
91行目:
== エピソード ==
[[1958年]](昭和33年)の[[ロンドン映画祭]]に[[黒澤明]]が招待され、山田が主演した『[[蜘蛛巣城]]』がオープニング上映された。直後に行われたパーティで黒澤が[[ローレンス・オリヴィエ]]、[[ヴィヴィアン・リー]]夫妻と会食した際、ヴィヴィアンは山田に対して大きな関心を示し、抑制された演技と発狂する場面での[[メーキャップ]]について、黒澤に繰り返し質問したという<ref>
[[ニュース映画]]「[[日本ニュース]]」戦後編 第91号にて映画、演劇の入場税引き上げに反対する署名運動に参加している姿が写されている。
125行目:
* 2000年:[[文化勲章]]
* 2000年:[[名誉都民]]
* 2001年:第41回[[牧野省三]]賞<ref>
* 2012年:第30回[[ゴールデングロス賞]] 特別功労賞(没後)
* 2012年:第57回「[[映画の日]]」特別功労賞<ref>[http://www.eidanren.com/activity01_02.html 映画の日 特別功労大章・特別功労章及び感謝状贈呈者一覧]、映画産業団体連合会、2015年6月4日閲覧</ref>
433行目:
* [[水野晴郎]]『水野晴郎と銀幕の花々』、[[近代文芸社]]、1996年 - 水野による山田を含む女優達のインタビュー集
* [[川本三郎]]『君美わしく 戦後日本映画女優讃』、[[文藝春秋]]、1996年 - 川本による山田を含む女優達のインタビュー集
*美馬勇作 責任編集『女優 山田五十鈴』[[集英社インターナショナル]]、2018年 - 舞台写真・共演者インタビュー・年譜を収録した豪華写真集。山田五十鈴のファンであった高知県の呉服店「ごふく美馬」店主による[[自費出版]]本
== 脚注 ==
{{Reflist|group="注釈"}}
{{Reflist|2}}
==参考文献==
<!-- 「参考文献」節には、本記事の出典として実際に使われている文献のみをご記入下さい。 -->
{{参照方法|date=2019年6月28日 (金) 07:28 (UTC)|section=1}}
* {{Cite book|和書
|author =
467 ⟶ 469行目:
* {{URL|www.tvdrama-db.com/name/p/key-%E5%B1%B1%E7%94%B0%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%88%B4 |山田五十鈴 - テレビドラマ人名録 - ◇テレビドラマデータベース◇ }}
*{{NHK人物録|D0016010332_00000}}
*
* {{cite web|url=http://hon.bunshun.jp/articles/-/1087|accessdate=2016-12-15|title=女優としてはじめて 文化勲章を受けた山田五十鈴|work=文春写真館|publisher=[[文藝春秋]]|date=2012-09-18}}{{リンク切れ |date=2019年6月28日 (金) 07:28 (UTC)}}
* {{Commonscat-inline}}
|