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隣国である日本と朝鮮半島との間は歴史的に関わりが深く、戦争や侵略の経験も相互に持った。秀吉が生きていた当時からも大部分は認識されており、現在では以下の外交および軍事的出来事が前史として両国に存在していたことが分かっている。{{main|日朝関係史}}
 
[[663年]]に[[唐]]・[[新羅]]連合軍と[[大和朝廷]]・[[百済]]連合軍が衝突した[[白村江の戦い]]があり、大和・百済側が敗北した。これ以後、大和朝廷は朝鮮半島への直接介入をやめてしまい、(何度か計画は持ち上がったものの)日本側からは数万に及ぶ大規模な出兵は文禄の役まで約千年間も途絶えることになった。しかし一方で交易は断続的に続けられた<ref name="2010ri" />。他方、[[812年]]から[[906年]]までの間、小規模な海賊による[[新羅の入寇]]が繰り返され、[[997年]]から[[1001年]]にかけての[[高麗]]海賊による入寇があった。[[1019年]]には、[[高麗]](及び傘下の[[女真族]])による[[刀伊の入寇]]があった。
 
[[1224年]]から5回に渡って、高麗の[[金州区|金州]](現中国領)や[[巨済島]]などに初めて倭人の海賊が襲来。後に[[倭寇]]と呼ばれる海賊の活動が始まった。高麗は[[大宰府]]に海賊取締りを要請し、少弐職にあった[[武藤資頼]]は大使の目の前で海賊90名を処刑させた<ref name="2010son">{{Harvnb|孫|2010|loc=PDF}}</ref>。その後、モンゴル軍の侵攻を受けた高麗は[[元 (王朝)|元]]に降伏。[[珍島]]や済州島に逃げた[[三別抄]]が1271年に日本に救援を求めるが、無視された。
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=== 日明関係前史 ===
1402年、[[足利義満]]は京都北山に明使の返礼を受け入れて、[[建文帝]]の冊封を受諾した。中国で[[靖難の変]]が起こったため、1404年に[[永楽帝]]は改めて義満を「日本国王」として冊封して金印を下賜した。以後1547年までの150年間で19回に及ぶ遣明船(勘合船)が出されて、勘合貿易が交わされた。これは実質的には朝貢であったが、10年1貢<ref name="tyoko" group="注" />という特異なものであった<ref name="kuwa" />。義満は冊封儀礼も行っていたとされるが、次の4代将軍足利義持は外交方針を改めて1411年に冊封関係は断絶された。6代将軍[[足利義教]]が一時復活させるが、以後も途切れがちで、勘合貿易を独占していた[[大内氏]]の滅亡(1551年)によって、日明関係はほぼ断絶した。
{{main|冊封|日明貿易}}
 
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1591年5月、秀吉の国書を受けた朝鮮([[#征明嚮導|後述]])では、宗主国である明に奏聞するべきかどうか議論になった。東人派の間では情勢の不明の内に奏聞するのは混乱させるだけで、波風を立てると否定的で、奏聞の代わりに聖節使に任命した[[金応南]]に事情を説明させることにした。ところが明では、すでに4月に琉球を訪れた商人[[陳申]]が通報し、それが福建と浙江の[[巡撫]]という地方官僚を介して正式な報告として上げられていた。しかも内容は日本が明侵攻を計画し朝鮮がその先導役となるというものであって、明は朝鮮が日本と共謀しているのではないかとの疑念を抱いていた。遼東巡撫に兵を派して国境の警備を固めさせるとともに、朝鮮の情勢を内偵させた。
 
明は8月に来訪した金応南の説明に満足し、朝鮮節使を慰労して銀2万両を送った。ところが入れ替わり遼東都司から征明嚮導の真偽を詰問する文書が、同じ頃に朝鮮朝廷に届いて彼らは驚愕した。慌てた朝鮮朝廷では、柳成龍と[[崔岦]]が作成した朝鮮国王名義の陳倭情報奏文<ref>{{Harvnb|徳富|1935|ref=aa|loc=pp.247-252}}</ref>を[[韓応寅]]に持たせて急派した。その間も9月には薩摩の在日明国人の医師[[許儀俊]]の「すでに朝鮮は日本に服属して征明嚮導に協力しようとしている」<ref name="yone">{{Harvnb|米谷|2005|loc=PDF}}</ref>という追いうちとなる報告が明にあり、また琉球王国からも使者が来て奏聞された。鄭迥や蘇八といった帰化中国人の複数の情報筋からも、朝鮮が日本に服属したという内容が明には届けられていた。
 
1592年正月頃に明の朝廷に陳奏文が提出され、改めて[[#日朝交渉の決裂|日朝交渉]]の経緯を詳しく説明したが、朝鮮通信使を日本に送った事実はひた隠しにされ、中国人による通報などは朝鮮に対する誣告であると非難するばかりで、日本の出兵計画を大それたことで虚偽だと片づけていた。このため結果的に明が「征明嚮導」の疑念を払しょくするには至らず、戦役が起こった後も、'''明の猜疑心は消えなかった'''。むしろ(朝鮮がないと言っていた)朝鮮出兵が現実のものとなったことで明側の疑念は深まったのであった。遼東の明将らは朝鮮朝廷を難詰し、指揮権の統一にも反対して、朝鮮民衆の日本軍協力を疑い、朝鮮に対しては一定の距離を置いた<ref name="yone" />。
 
=== 朝鮮の内情 ===
権威の後ろ盾を明に求めた李成桂は、軍師であった[[鄭道伝]]の進言により国内を仏教を崇めた高麗時代とは一転して、[[朱子学]]を国教<ref group="注">正学あるいは官学とも言う。</ref>とすることで道徳秩序のある儒教国家として繁栄させようとした。しかし鄭自身が王子の序列争いに巻き込まれて斬首されるなど朝鮮朝廷の動乱は収まらなかった。兄達を蹴落として王位を奪った[[太宗 (朝鮮王)|李芳遠]]の後を継いだ[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]以後の君主は平和に腐心して儒学思想を極端に信奉するようになったが、かえって人臣の間に[[パターナリズム|家長的名文主義]]や排他主義が蔓延し<ref>{{Citation|和書
|last = 入澤
|first = 宣幸
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[[妙満寺]]文書(5月29日付)によれば、秀吉は[[高台院|北政所]]に宛てた手紙で、壱岐対馬に人質を求めて出仕を命じただけでなく、朝鮮に入貢を求めて書状を出したこと、唐国まで手に入れようと思うと述べていた<ref>{{Harvnb|辻|1942|loc=p.386}}</ref>。小早川文書によれば、10月14日付の[[肥後国人一揆]]後の[[佐々成政]]の処罰について、「唐南蛮国迄も従へんと欲するによって、九州の如きは五畿内同前に平定さねばらぬ」と秀吉が述べた<ref>{{Harvnb|辻|1942|loc=pp.387-389}}</ref>という。
 
秀吉の唐国平定計画は長期的に順を追って進められており、しかも日本統一の過程と手段や方法が同一であって、諸国王を諸大名と同列に扱ったことに特色と一貫性があった。明への入朝要求はことごとく無視されたことから、その道中の朝鮮は前段階となった。([[#朝鮮半島経由の理由|後述]]) 九州征伐の後に日朝交渉は始まっていて、鶴松の誕生や小田原征伐、[[京の大仏|大仏]]建立などで中断はあったが、以後はもはや遠征は単なる構想ではなかった。
 
天正20年(1592年)6月、すでに朝鮮を併呑せんが勢いであったとき、毛利家文書および鍋島家文書には「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するが如くあるべきものなり。只に大明国のみにあらず、況やまた天竺南蛮もかくの如くあるべし」との秀吉の大気炎が残されている<ref>{{Harvnb|辻|1942|loc=pp.410-411}}</ref><ref name="asao" />が、それは誇大妄想などではなくて計画があったのである。([[#周辺国への影響|関連話]])
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天正19年[[8月23日 (旧暦)|8月23日]]、秀吉が「唐入り」と称する征明遠征の不退転の決意が、改めて諸大名に発表された。[[宇喜多秀家]]が真っ先に賛成したといわれ、[[五大老]]のうち[[徳川家康]]は関東にいて不在であったが、他の大老、奉行は秀吉の怒りを恐れて不承不承の賛意を示した<ref>{{Harvnb|徳富|1935|ref=aa|loc=pp.271-272}}</ref><ref group="注">。またこのとき、加藤清正が傷心の秀吉に外征を勧めて自らが先鋒を務めることを請うたという話があるが、これは清正の立場や前後の事情から考えて明らかに辻褄が合わず、[[#動機に関する諸説|鶴松死亡説(鬱憤説)]]に沿って作られた寓話か、加藤家傳が清正の役割を大きく誇張して書いたものと思われる。また、同年8月13日に清正が領国に対して36か条に及ぶ準備を指示する書状(「渋沢栄一文書」所収、[[東京大学史料編纂所]]所蔵影写本)には、大規模な軍事作戦に対する危機感を顕わにしている(中野等「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」)。</ref>。このために秀家は、後に秀吉の名代として総大将を任じられることになる。決行は翌年春に予定され、(秀吉は帰順したと考えていた)朝鮮を経由して明国境に向かうというこの遠征のために、国を挙げて出師の準備をさらに急ぐように促された。12月27日には秀吉は関白職を内大臣[[豊臣秀次]]に譲って、自らは太閤と称して外征に専心するようになった。
 
秀吉は遠征軍の宿営地として名護屋城築造を指示した。[[黒田孝高]]に縄張りを命じて、[[浅野長政]]を総奉行とし九州の諸大名に普請を分担させた。また壱岐を領する松浦隆信にも、勝本に前哨基地となる[[勝本城|風本城]]の築城を命じた。
 
名護屋城の建設予定地は、波多氏の領土で、フロイスが「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した<ref>{{Harvnb|笠谷|黒田|2000|loc=p.36}}{{Quote|「その際はなはだ注目されるのは、その地は僻地であって、人が住むのには適しておらず、単に食料のみならず、事業を遂行する際のすべての必需品が欠けており、山が多く、しかも一方は沼地で、あらゆる人手を欠いた荒地であったことである」|『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉編II』第35章より}}</ref>場所であったが、完成した名護屋城には全国より大名衆が集結し、「野も山も空いたところがない」と水戸の平塚滝俊が書状に記した<ref name="kaku36">{{Harvnb|笠谷|黒田|2000|loc=p.36}}</ref>ほど活況を呈し、唐入りの期間は日本の政治経済の中心となった<ref name="kaku36" />。
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2月27日、京都で秀吉は東国勢の到着を待っていて、徳川家康の手勢が少ないのを怒り不機嫌となったと言うが、これが俗説としても、出陣の延期が続いて人々は不安がっていたようだ。秀吉が吉日である3月1日に出陣の儀をするつもりだったが、眼病を患って延期した。3月13日、「高麗へ罷(まか)り渡る人数の事」の軍令が発表され、日本軍の先駆衆が9隊に再編成される陣立てが新たに示された。ようやく26日早朝、秀吉は御所に参内して[[後陽成天皇]]に朝鮮出兵を上奏して、京を出立した。この間も第一軍(隊)は3月12日に壱岐から対馬へ移動し、後続も渡海を開始。23日からは第一軍は対馬の北端の豊崎に移動して待機していた。
 
他方、最後通牒の役目を担った玄蘇は改めて朝鮮国王が入朝して服属するか、さもなくば朝鮮が征明軍の通過を許可するように協力を交渉していたが、朝鮮側の返事は要領を得なかった<ref>{{Harvnb|参謀本部|ref=staff1|1924|loc=pp.82-83}}<br>{{Harvnb|北島|1995|loc=pp.34-37}}</ref>。すでに期日が過ぎた4月7日、玄蘇は対馬へ帰還して朝鮮側の拒絶の意志を伝えた<ref name="nakanoPunkown">{{Harvnb|中野|2008|loc={{要ページ番号|date=2014年6月}}}}</ref>。
 
道中、緩々と[[厳島神社]]に参拝して毛利氏の接待を受けていた秀吉の大行列が名護屋城に着陣したのはすでに戦端が切られた後の4月25日であった。
 
=== 日本軍陣立 ===
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天正20年3月15日、軍役の動員が命じられ、諸国大名で四国・九州は1万石に付き600人、中国・紀伊は500人、五畿内は400人、近江・尾張・美濃・伊勢の四ヶ国は350人、遠江・三河・駿河・伊豆までは300人でそれより東は200人、若狭以北・能登は300人、越後・出羽は200人と定めて、12月までに大坂に集結せよと号令された<ref name="ni-ma" />。ただしこれらの軍役の割り当ては一律ではなくて、個別の大名の事情によって減免された。動員された兵数の実数はこの8割程度ともいわれる<ref>{{Harvnb|中野|2008|loc=p.137}}</ref>。
 
主として西日本方面([[西海道]]、[[南海道]]、[[山陰道]]、[[山陽道]])では全面的に兵が動員されたが、東日本方面([[畿内]]以東)では動員数が減らされた。主として西日本の大名が朝鮮へ出征し、徳川家康などの東日本の大名は肥前名護屋に駐屯した{{Sfn|旧参謀本部|1995|p=67}}。
 
兵は諸侯の[[石高]]の大小に比例して動員されたため、数万人を出す大身者から数百人を出す小身者まで様々で、これらを組み合わせて一隊が編成され、主としてその中の大身者を指揮者とした。また豊臣譜代の諸侯が外様の諸侯を指揮することとした。加藤清正や小西行長らが鍋島直茂・宗義智・松浦鎮信らを指揮下に置いたのはその例である{{Sfn|旧参謀本部|1995|pp=67-68}}。
 
全体としては概算で、名護屋滞在が10万、朝鮮出征が16万〜20万となった。ただし、この数字には人夫(輸卒)や水夫(水主)などの非戦闘員(補助員)が含まれていた。非戦闘員の割合は各隊でまちまちで、文禄の役における島津勢では約4割であった<ref group="注">文禄の役における島津勢15,437人のうち6,565人 (43%) が人夫・水夫であった{{Citation|和書
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</div><div style="float:left;vertical-align:top;white-space:nowrap;margin-right:1em">
:[[筑紫広門]]…900人
:[[毛利輝元]]<ref name="teru" group="注">毛利家文書では七番隊とされる。しかし、松浦古事記等には六番隊と同じグループに書かれており、毛利輝元は実際には六番隊と行動を共にしていた。徳富蘇峰等も先駆衆を六軍とする。</ref>…30,000人([[毛利秀元]]、[[吉川広家]]ほか)
</div>{{clear|left}}
:*第二軍「朝鮮国都表出勢衆」
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秀吉の戦略は可能な限り平和的手段で降服させるように努めてそれに従わないときにのみ征伐するというものであったが、海外において明との勘合貿易の復興や通商貿易の拡大を目指したときに、朝鮮が明との仲介要請を拒否したことが、朝鮮出兵の理由であったという説は、日本史学者[[田中義成]]や[[辻善之助]]、[[柏原昌三]]など多くの学者が唱えてきたものである。秀吉の平和的外交を強調する一方、侵略の責任の一端が朝鮮や明にあったことを示唆する主張として、しばしば批判を受けた説であったことも指摘せねばならないが、この説の問題点はむしろ貿易が当初からの目的と考えるには'''根拠が薄い'''ことである。
 
歴史学者[[田保橋潔]]が「どの文書にも勘合やその他の貿易についての言及はない」<ref name="rikeko" />と批判したように、肝心の部分は史料ではなく想像を基にしている。蘇峰は「秀吉をあまりにも近世化した見解」ではないかと疑問を呈した<ref>{{Harvnb|徳富|1935|ref=aa|loc=pp.127-128}}</ref>。日明交渉において突如登場した勘合貿易の復活の条件が主な論拠となるが、中村栄孝が「明國征服の不可能なるを覚った後、所期の結果とは別に考慮されたものに他ならない」<ref>{{Harvnb|中村|1935|loc=p.18}}</ref>と述べたように当初からの目的だったか疑わしいうえに、秀吉が[[万暦帝]]の臣下となることを前提とする「勘合」と「冊封」の意味を秀吉本人が理解していなかったという説<ref name="kuwa" />もあって、慶長の役の再開理由が単に朝貢(勘合貿易)が認められなかっただけでなく、朝鮮半島南部領有(四道割譲)の拒否にもあったのであればこの説は成り立たないと指摘された。ただし、名古屋大学名誉教授[[三鬼清一郎]]は領土拡張説と勘合貿易説は二者択一ではないと主張してこれに異議を唱え、対外領土の拡張も対明貿易独占体制の企ての一部であるとした。また歴史学者[[鈴木良一 (歴史学者)|鈴木良一]]は、豊臣政権の基盤は弱く商業資本に依存していたと指摘し、商業資本による海外貿易の拡大要求が「唐入り」の背景にあったとした<ref name="rikeko" />。
;国内集権化説(際限なき軍役説)
国内の統一や権力集中あるいは構造的矛盾の解決のための外征であったとする説も多数存在するが、豊臣政権の統治体制が未完で終わったために'''検証できないものが多い'''のが難点である。
 
日本史学者[[佐々木潤之介]]「全国統一と同時に、集権的封建国家体制建設=武士の階級的整備・確立と、統一的な支配体制の完成に努力しなければならず、統一的支配体制の完成事業は、この大陸侵略の過程で推進した」<ref name="rikeko" />と指摘した。同じく[[朝尾直弘]]は、家臣団内部の対立紛争を回避し、それらを統制下におくための論理として「唐国平定」が出てきたとし、惣無事令など日本国内統制政策の際にも「日本の儀はいうに及ばず、唐国までも上意を得られ候」という論法を用いていたことから、大陸を含む統合を視野にいれていたとし<ref name="asao" />、朝鮮出兵による軍賦役を利用して[[身分統制令]]を課して新しい支配=隷属の関係を設定したと論じた<ref name="rikeko" />。[[貫井正之]]教授は「大規模な海外領土の獲得によって、諸大名間の紛争を停止させ、全大名および膨張した家臣団をまるごと統制下に組み込もうとした」と論じ、構造的矛盾を解決する必要不可欠なものであったと主張した<ref name="rikeko" />。
 
日本史学者[[山口啓二]]「自らの権力を維持するうえで諸大名への『際限なき軍役』の賦役が不可避であり、戦争状態を前提とする際限なき軍役が統一戦争終結後、海外に向けられるのも必然的動向である」と主張し、「秀吉の直臣団は少数の一族、子飼いの武将、官僚を除けば、[[兵農分離]]によって在地性を喪失した寄せあつめの一旗組が集まって軍隊を構成しており、戦功による恩賞の機会を求めていたので、豊臣氏自体が内側で絶え間なく対外侵略を志向して、麾下の外様大名を統制するために彼らを常に外征に動員し、豊臣氏の麾下に管理しておかなければならなかった」と説明した<ref name="rikeko" />。
日本史学者の[[佐々木潤之介]]も「全国統一と同時に、集権的封建国家体制建設=武士の階級的整備・確立と、統一的な支配体制の完成に努力しなければならず、統一的支配体制の完成事業は、この大陸侵略の過程で推進した」<ref name="rikeko" />と指摘した。同じく[[朝尾直弘]]も家臣団内部の対立紛争を回避し、それらを統制下におくための論理として「唐国平定」が出てきたとし、惣無事令など日本国内統制政策の際にも「日本の儀はいうに及ばず、唐国までも上意を得られ候」という論法を用いていたことから、大陸を含む統合を視野にいれていたとし<ref name="asao" />、朝鮮出兵による軍賦役を利用して[[身分統制令]]を課して新しい支配=隷属の関係を設定したと論じた<ref name="rikeko" />。[[貫井正之]]教授は「大規模な海外領土の獲得によって、諸大名間の紛争を停止させ、全大名および膨張した家臣団をまるごと統制下に組み込もうとした」と論じ、構造的矛盾を解決する必要不可欠なものであったと主張した<ref name="rikeko" />。
;国内統一策の延長
 
これは統一が軍事的征服過程であるという従来見解を否定する点が特徴の説で、歴史学者[[藤木久志]]は、天下統一=平和を目指す秀吉にとって[[惣無事令]]こそが全国統合の基調であったとし、海賊禁止令は単に海民の掌握を目指す国内政策だけでなく海の支配権=海の平和令に基づいており、全ての東アジア外交の基礎として位置付けられたとし、「国内統一策つまり惣無事令の拡大を計る日本側におそらく外国意識はなく、また敗戦撤退の後にも、敗北の意識よりはむしろ海を越えた征伐の昂揚を残した」<ref name="rikeko" />と述べた。対明政策は勘合の復活、すなわち服属要求を伴わない交易政策であるが、朝鮮・台湾・フィリピン・琉球には国内の惣無事令の搬出とでもいうべき服属安堵策を採るなど、外交政策は重層性が存在し、秀吉は「朝鮮に地位保全を前提とした服属儀礼を強制」して従わないため出兵した。結果的に見れば戦役は朝鮮服属のための戦争であるが、それも国内統一策の延長であったと主張した<ref name="rikeko" />。
日本史学者[[山口啓二]]も「自らの権力を維持するうえで諸大名への『際限なき軍役』の賦役が不可避であり、戦争状態を前提とする際限なき軍役が統一戦争終結後、海外に向けられるのも必然的動向である」と主張し、「秀吉の直臣団は少数の一族、子飼いの武将、官僚を除けば、[[兵農分離]]によって在地性を喪失した寄せあつめの一旗組が集まって軍隊を構成しており、戦功による恩賞の機会を求めていたので、豊臣氏自体が内側で絶え間なく対外侵略を志向して、麾下の外様大名を統制するために彼らを常に外征に動員し、豊臣氏の麾下に管理しておかなければならなかった」と説明した<ref name="rikeko" />。
;国内統一策の延長
これは統一が軍事的征服過程であるという従来見解を否定する点が特徴の説で、歴史学者の[[藤木久志]]も天下統一=平和を目指す秀吉にとって[[惣無事令]]こそが全国統合の基調であったとし、海賊禁止令は単に海民の掌握を目指す国内政策だけでなく海の支配権=海の平和令に基づいており、全ての東アジア外交の基礎として位置付けられたとし、「国内統一策つまり惣無事令の拡大を計る日本側におそらく外国意識はなく、また敗戦撤退の後にも、敗北の意識よりはむしろ海を越えた征伐の昂揚を残した」<ref name="rikeko" />と述べた。対明政策は勘合の復活、すなわち服属要求を伴わない交易政策であるが、朝鮮・台湾・フィリピン・琉球には国内の惣無事令の搬出とでもいうべき服属安堵策を採るなど、外交政策は重層性が存在し、秀吉は「朝鮮に地位保全を前提とした服属儀礼を強制」して従わないため出兵した。結果的に見れば戦役は朝鮮服属のための戦争であるが、それも国内統一策の延長であったと主張した<ref name="rikeko" />。
;東アジア新秩序説
[[下克上]]で生まれた豊臣政権は、従来の東アジアの秩序を破壊する存在であったとする説。明・中国を中心とした東アジアの支配体制・秩序への秀吉の挑戦であったという考えは、戦前においては朝鮮半島の領有を巡って争った[[日清戦争]]の前史のように捉えるものであり、明治時代前後に支持を得た。しかし頼山陽の『[[日本外史]]』にある秀吉が日本国王に冊封されて激怒したという有名な記述は近代以前に流布された典型的な誤解<ref name="kuwa" />であり、'''基本的な史実に反する'''点があった。史料から秀吉自身が足利義満のように望闕礼を行ったと十分に判断でき、史学的には秀吉が意図して冊封体制と崩そうとしたという論拠は存在しないといっていい。
1,043 ⟶ 1,042行目:
石田・小西らは、本国には書き直して報告すればよいと進言。6月28日に小西行長の家臣[[内藤如安]]を答礼使として北京へ派遣することとした。7月中旬、釜山に戻ってきた勅使に朝鮮の二王子が引き渡された。
 
一方、明へ向かった内藤如安は秀吉の「納款表」を持っていたが、明の宋応昌は秀吉の「降伏」を示す文書が必要だと主張。小西行長は「関白降表」を偽作して内藤に託し、内藤は翌1594年(文禄3年)の12月に北京に到着した。
 
=== 第二次晋州城の戦いと戦線膠着 ===
<!--出典なし。日本軍は本土から釜山までの海路の補給は維持していたが、釜山から漢城までの陸路の治安が悪化して食糧などの補給が滞りがちであったため、加藤清正が捕虜にした李氏朝鮮の2人の王子([[臨海君]]・[[順和君]])の返還と引き替えに釜山周辺の南部へ4月頃までに移陣した。
-->
 
一方、この頃、秀吉も朝鮮南部の支配確保は必須として、[[晋州市 (慶尚南道)|晋州]]城攻略を命じる<ref name="kasayakuroda">笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』文英堂, 2000年</ref>。戦闘要員42491人の陣容であった、近隣には釜山からの輸送役や城の守備に当たる部隊が存在した。当初は漢城戦線を維持したまま日本本土からの新戦力を投入する計画であった。
 
1,064 ⟶ 1,063行目:
翌日の9月5日午前0時頃、[[慶長伏見地震]](慶長伏見大地震)が発生<ref>[http://jishin-info.jp/column-08/column-08f.shtml 寒川旭「秀吉と地震」] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120718231247/http://jishin-info.jp/column-08/column-08f.shtml |date=2012年7月18日 }}</ref>。M 7.0-7.1で、京都や堺で死者合計1,000人以上。[[伏見城]]の天守や石垣、[[方広寺]]の大仏が倒壊。余震が翌年春まで続く<ref>[[地震の年表 (日本)]]参照</ref>。これらの大きな地震が相次いだことで[[慶長]]に改元された(このため、地震は「慶長」を冠している)。
 
なお、この地震より以前、加藤清正が石田三成・小西行長らに訴えられて日本で謹慎していたが、清正は地震が起きた際に秀吉のもとへ駆けつけて弁明を行い、謹慎を解かれ、慶長の役にも出陣することとなった('''地震加藤''')。ただし、清正が地震の2日後に出した書状では清正は伏見邸の未完成により自分が無事だったと記しており伏見にはいなかったことが判明しており、地震加藤の逸話は史実ではなかったとみられる。また、同じ時期に他の武将にも帰国の動きがあったことから、清正の帰国は和平の進展と明使節の来日に対応したもので、謹慎処分によるものではなかった可能性が高い<ref name="nakano"/>。
 
===日本軍陣立(慶長)===
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== 慶長の役 ==
[[ファイル:Navalzhugenu2.jpg|right|thumb|300px|『朝鮮戦役海戦図屏風』/昭和16年前後/太田天洋(明治17-昭和21)]]
慶長2年(1597年)の後役の作戦目標は諸将に発せられた2月21日付朱印状によると、「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」というもので<ref>赤国(全羅道)不残悉一篇ニ成敗申付、青国(忠清道)其外之儀者、可成程可相動事。『慶長二年二月二十一日付朱印状』</ref>、作戦目標の達成後は沿岸部へ撤収し仕置きの城([[倭城]])を築城し、在番の城主(主として九州の大名)を定めて、他の諸将は帰国するという計画が定められた<ref>右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割符、丈夫ニ可申付事。『慶長二年二月二十一日付朱印状』</ref>(さらに、その後の慶長4年(1599年)に、再出兵による大規模な攻勢も計画されていた。<ref>来年は御人数指し渡され、朝鮮都までも動きの儀、仰せ付けららるべく候。其の意を得、兵糧、玉薬沢山に覚悟仕り、在庫すべく候なり『慶長三年三月十三日付朱印状(立花家文書)』 度々仰せ遣わされ候ごとく、来年大人数遣わされ働の儀、仰せ付けらるべく候間、其の中いずれの城々も丈夫に在番肝用に候『慶長三年五月二十二日付朱印状(鍋島家文書)』等</ref>)。
慶長2年(1597年)、九州・四国・中国勢を中心に編成された総勢14万人を超える軍勢は逐次対馬海峡を渡り釜山浦を経て任地へ向かった。
 
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</ref>。
 
秀吉の死後、五大老の命令により日本軍は撤退を開始する。1598年11月下旬から諸大名は順次、釜山から博多へ帰着した。最後まで海上補給路が維持されていたからこそ可能な撤退作戦であった<ref>『[[歴史群像]]』2010年4月号 167頁「朝鮮出兵渡海作戦」学研パブリッシング</ref>。
 
7年に亘る戦争の間、大軍の海上輸送と揚陸、海岸の拠点・海上補給路の構築と長期間の維持という渡海作戦は成功を収めていたのである<ref>『[[歴史群像]]』2010年4月号 167頁「朝鮮出兵渡海作戦」学研パブリッシング</ref>。
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留守中の大名領地に[[太閤検地]]が行われ、[[豊臣政権]]の統治力と官僚的な集団が強化された。しかし戦後にはこの戦争に過大な兵役を課せられた西国大名が疲弊し、家臣団が分裂したり内乱が勃発する大名も出るなど、かえって豊臣政権の基盤を危うくする結果となった。
 
また、出兵に必要な武器・弾薬・兵粮・戦夫の多くは大名の負担であり、その負担は直接出陣していない領内の家臣や百姓に転嫁されただけでなく実際の戦夫として百姓の動員が行われた。このため、農村では動員に抵抗する動きが発生し、また一度動員されて朝鮮半島に送られた戦夫の中にも逃亡して秘かに日本に逃げ帰るものもいた。文禄2年に西生浦倭城にいた加藤清正が1通の書付を見つけた。それは領国・肥後の百姓から清正に随行している人夫に充てて記されたもので、「今なら集団で肥後に逃げ帰っても代官の改めもないあり様なので逃げ帰るのなら今だ」という内容で、百姓の抵抗が留守の代官まで巻き込むものになっていることを示すものだった。帰国した清正は夫役の免除などを行って民心の安定を図るものの、豊臣政権の分裂の影響で有名無実となり、財政難の克服と農村再建が重くのしかかることになる<ref>稲葉継陽「加藤清正の歴史的位置」(初出:熊本県立美術館 編『生誕四五〇年記念展 加藤清正』(2012年)/山田貴司 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』(戒光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-139-4)</ref>が、出陣した大名が多かれ少なかれ直面した問題であった。
 
一方で、諸大名中最大の石高を持ちながら、九州への出陣止まりで朝鮮へ出兵しなかった徳川家康が隠然たる力を持つようになった。西国大名が出兵で疲弊した一方で、損耗を免れたことが徳川家康が後に天下を取る要因の一つとなった。
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五大老の筆頭となった家康は秀吉死後の和平交渉でも主導権を握り、実質的な政権運営者へとのし上がってゆく。この官僚集団と家康の急成長は、豊臣政権存続を図る官僚集団(主に石田三成)と次期政権を狙う家康との対立に発展し、[[関ヶ原の戦い]]慶長5年(1600年)に至った。戦いに圧勝した家康は日本国内で不動の地位を得、慶長8年(1603年)に[[朝廷]]より[[征夷大将軍]]に任ぜられ[[江戸幕府|徳川幕府]]を創設した。さらに家康は[[大坂の陣]]慶長19-20年(1614-1615年)で[[豊臣秀頼|豊臣氏]]を滅亡させることで[[徳川将軍家|徳川氏]]による国内覇権を確立、[[江戸時代]]が始まった。
 
また出兵に参加した大名たちによって連れてこられたり、大名と雇用関係を結んだりして自ら来日した朝鮮人から様々な技能が伝えられた。朝鮮人[[儒学者]]との学問や書画文芸での交流、そして[[陶工]]が大陸式の[[磁器]]の製法、瓦の装飾などを伝えたことで日本の文化に新たな一面を加えた。その一方、多くの朝鮮人捕虜が戦役で失われた国内の労働力を補うために使役され、また[[奴隷]]として海外に売られたこともあった<ref>『朝鮮日々記を読む 真宗僧が見た秀吉の朝鮮侵略』 朝鮮日々記研究会編 [[法藏館]] 2000年</ref>。
 
慣れない異国の戦争は後の[[台湾出兵]]・[[日清戦争]]と同様に戦死者以上の戦病死を発生させた。文禄二年二月五日付島津義久や吉川広家に宛てた秀吉朱印状には、これまで動員した船頭・水夫の大半が病死したため、浦々から15歳から60歳までの水夫を動員することを命じている<ref>『島津家文書』『吉川家文書』</ref>。同年四月十二日付渡海諸将宛秀吉朱印状にも病が蔓延しているので医師20人を派遣するとある<ref>『毛利家文書』</ref>。陸でも同年七月二十一日付伊達政宗書状には腫気という病を得た者は十人中九人が亡くなったとし、また同月二十四日付書状には水の違いで多くの者が病死したとある<ref>『伊達家文書』</ref>。ルイス・フロイスの調査によれば、文禄の役で渡海した十五万人の内、死亡者は五万人、その殆どは過労死・餓死・凍死・病死であった<ref>『フロイス日本史』</ref>。大名に限っても[[豊臣秀勝]]・[[加藤光泰]]・[[戸田勝隆]]・[[長谷川秀一]]・[[五島純玄]]・[[島津久保]]が渡海先で、もしくは渡海先で病を得て帰国後に病死している。
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=== 明への影響 ===
朝鮮への援兵を同時期に行われた[[寧夏]]の[[ボハイの乱]]、播州([[四川省]])の[[楊応龍の乱]]の2つの反乱の鎮圧と合わせて「[[万暦の三征|万暦の三大征]]」と呼んでいる。『明史』王徳完伝によると「寧夏用兵(ボハイの乱)、費八十余万、朝鮮之役七百八十余万、播州之役(楊応龍の乱)二百余万」、『明史』陳増伝には「寧夏用兵(ボハイの乱),費帑金二百余萬。其冬。朝鮮用兵,首尾八年,費帑金七百余萬。二十七年,播州用兵(楊応龍の乱),又費帑金二三百萬」とあり、数字に違いはあるが、万暦の三大征の中でもこの戦役が[[ボハイの乱]]と[[楊応龍の乱]]とは比較にならないほど財政上に大きな負担であったと認識されていたことが窺える。
 
これらの膨大な軍事費の支出および戦死者<ref group="注" name="mss" />を出したことと皇帝[[万暦帝]]の奢侈は明の国力を食い潰し、[[17世紀]]前半の[[女真]]の強大化に耐え切れないほどの、明の急速な弱体化の重要な原因となったと考えられている。
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明軍の兵糧供給は李氏朝鮮側が提供したため<ref group="注">米、牛、豚などの他、朝鮮の女人も要求している</ref>、朝鮮政府は過酷な食料調達を行った。このため明軍の略奪と合わせて日本軍が侵攻していない平安道も荒廃して人口が激減している。また朝鮮軍より明軍に優先的に食料供給が行われたことから、朝鮮軍の戦意低下は少なからぬものがあった。朝鮮に駐屯した明軍による朝鮮民衆に対する無秩序な略奪なども横行し、朝鮮の民衆は日本を一番の侵略者としながらも、明軍も第二の侵略者であるとして憎んだ。
 
また日本軍の侵入が始まると、特に身分差別に苦しんだ朝鮮の下層民衆は混乱に乗じて官庁や身分を示す書類の所蔵倉庫を焼き払った。また日本軍は義兵の抵抗に手を焼いたため、不穏分子とみられた住民の虐殺や村の焼き討ちなどを行うこともあった。戦功の証明として[[はなそぎ]]も行われたが<ref group=注>その後しばらくの間朝鮮に鼻のない人間が多く見られたということが知られているが、はなそぎも1597年の慶長の役の頃が主体である。</ref>、これは慶長の役以後の不穏民衆を一揆と認識して討伐した際の話であり、当初は日本の国内戦同様に非戦闘員である民衆は保護の対象であり殺戮は禁止されていた。以降、慶長の役においては鼻の数で戦功が計られ、老若男女を問わず非戦闘員も対象とされた。削がれた鼻は軍目付が諸大名から受け取り、塩漬けにした上で日本に送られ、のちに[[耳塚]]にて弔われた<ref name="shuuei11">熱田公『日本の歴史11 天下一統』集英社</ref>。
 
朝鮮軍に投降し捕えられた日本の将兵(降倭)は当初すぐに処刑されていたが、降倭を利用することを目的として1591年10月に降倭を勝手に殺すことを禁じる命令が出された。以後、降倭のうち砲術や剣術などの技能を有する者は訓錬都監や軍器寺に配属され、降倭からの技能習得が図られた。これにより日本の火縄銃の技術が朝鮮に伝わることとなった。また特殊技能のない降倭は北方の国境警備兵や水軍の船の漕ぎ手とされた。降倭の中には朝鮮王朝に忠誠を誓って日本軍と戦うなどして、朝鮮姓を賜り優遇されて朝鮮に定着する者もいた。