「比叡山焼き討ち (1571年)」の版間の差分

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その後[[本能寺の変]]で信長は倒れ、光秀も[[山崎の戦い]]で敗れると、生き残った僧侶達は続々と帰山し始めた。その後羽柴秀吉に山門の復興を願い出たが、簡単には許されなかった。山門復興こそ簡単には許さなかったが、詮舜とその兄賢珍の2人の僧侶を意気に感じ、それより陣営の出入りを許され、軍政や政務について相談し徐々に秀吉の心をつかんでいったと思われている。
 
そして[[小牧・長久手の戦い]]で出軍している秀吉に[[犬山城]]で度重なる要請を行い、ついに[[天正]]12年([[1584年]])5月1日、僧兵を置かないことを条件に正覚院豪盛と徳雲軒全宗に対して山門再興判物が発せられ、造営費用として[[銭貨|青銅]]1万[[貫#銭1000枚の単位|貫]]が寄進された。比叡山焼き討ちの約13年後のことであった。
 
== 延暦寺の発掘調査 ==