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[[1623年]]2月、チャールズは父の寵臣だった[[バッキンガム公]][[ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)|ジョージ・ヴィリアーズ]]の勧めで、父の許可を得ないまま自らスペイン旅行へ出かけ、3月に首都[[マドリード]]に着いた2人は[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]](フェリペ3世の息子でマリアの兄)の寵臣の[[オリバーレス伯爵|オリバーレス伯公爵]][[ガスパール・デ・グスマン]]と交渉した。しかしフェリペ4世は妹をプロテスタントのイングランドへ嫁がせる気は全くなく、オリバーレス伯は交渉を長引かせイングランドを戦争の圏外に置くこと、あるいは結婚でイングランド国内のカトリック教徒に対する寛容を勝ち取ることを目論んでいたため、2人は無駄に時間を費やした挙句、6月にカトリックへの寛容と生まれてくる子供達をカトリックに育てるという条件を秘密裡に承諾したにも関わらず、スペインがプファルツを回復する気が無いことにやっと気付き、憤慨して交渉を破談し9月に帰国した。外交経験が無い素人2人組の外交は半年が空費され、相手から一方的に条件を呑まされる寸前になり失敗に終わった<ref group="注">しかし皮肉にも、帰国した2人は婚約破談により、反スペインで沸き立っていた民衆に歓迎された。この好意を当てにした2人は議会召集をジェームズ1世に進言、1624年2月に開会された。今井、P168、塚田、P68、清水、P19 - P20。</ref><ref name="松村136">松村、P136。</ref><ref>森(1986)、P406 - P407、今井、P167 - P168、塚田、P67 - P68、清水、P19 - P20。</ref>。
 
スペインに振り回されたことに怒った2人は反スペイン派となり父の平和政策を覆し、[[1624年]]2月に開会された議会の好意的な姿勢に支えられスペインへ戦争すべく新たな同盟相手を求めた。そのため[[フランス王国|フランス]]王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の娘で[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]の妹[[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス|ヘンリエッタ・マリア]]とチャールズの結婚が進められたが、外交の素人バッキンガム公はスペインの時と同じ失態を繰り返し、フランス宰相[[リシュリュー]]との交渉で譲歩を強いられ、子供達をカトリックに教育、カトリック教徒への寛容などスペインと同様の条件を承諾した。同盟は成立したがイングランドの中途半端な対応でフランスがイングランド軍上陸を禁止、軍は疫病で自滅する羽目になり同盟の見通しは早くも不鮮明になり、イングランド国民はカトリック寛容を警戒し王家と国民の間に亀裂が生じた<ref group="注">元々戦争に反対していたジェームズ1世はスペインを刺激することを避けるため介入、同盟により出兵したイングランド軍に大陸のスペイン領通過を禁じた。これはイングランドに代理戦争をさせようとしたフランスのイングランド軍上陸禁止に繋がり、ひいては準備不十分のイングランド軍がろくに戦わないまま疫病で自滅という惨めな結果をもたらした。今井、P170 - P171。</ref><ref name="松村136">松村、P136。</ref><ref>森(1986)、P407、今井、P168 - P171、塚田、P68 - P69。</ref>。
 
=== 王位継承 ===
1625年3月、父の死去に伴い王位を継承しイングランド・スコットランド・アイルランド王チャールズ1世に即位した。バッキンガム公の補佐を受け6月にはヘンリエッタ・マリアと結婚したが、カトリック教徒を王妃に迎えたことは反カトリック派の反感を買うことになった<ref group="注">バッキンガム公がフランスと約束した条件の中に、ヘンリエッタ・マリアの家庭内における宗教的寛容と聖堂の設置があり、ヘンリエッタ・マリアはイングランドでもカトリック教徒であり続け、[[セント・ジェームズ宮殿]]内部に[[イニゴー・ジョーンズ]]設計のクイーンズ・チャペルが建てられた。これらはプロテスタントに恐怖の念を抱かせた。森(1986)、P408、今井、P170。</ref>。またチャールズ1世は父同様に[[王権神授説]]を信奉し、議会と対立した。加えて権力独占と無能ぶりをさらけ出すバッキンガム公にスペイン熱が冷めた議会が非難を開始、同月開催された議会は戦争補助金を認めたが追加しないことを明言、チャールズ1世が[[イングランド国教会]]が奉じる[[カルヴァン主義]]に反対する[[アルミニウス主義]]を支持したことも議会の批判を高める原因になり、チャールズ1世はバッキンガム公を守るため8月に議会を解散した。しかし状況はむしろ悪化し、10月に大陸スペインと戦争を開始したが({{仮リンク|英西戦争 (1625年-1630年)|en|Anglo-Spanish War (1625–1630)|label=英西戦争}})、[[カディス]]遠征が失敗したこと、同盟に基づいてイングランド艦隊を提供されたフランスが艦隊を国内のプロテスタントである[[ユグノー]]攻撃に差し向けたことでバッキンガム公批判は増大した<ref group="注">だが、乏しい財政では質の悪い兵士しか集められなかったこと、本国からの補給が不十分だったこと、当時軍事技術は向上しており、イングランドがこの変化についていけなかったことも遠征失敗の原因であり、バッキンガム公に全て責任がある訳ではない。今井、P173 - P174。</ref><ref name="松村136"></ref><ref>森(1986)、P407 - P408、今井、P171 - P173、塚田、P69 - P73、岩井、P31 - P32。</ref>。
 
チャールズ1世とバッキンガム公はフランス外交を転換、プロテスタント諸国の盟主となるべく[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]と同盟、フランスとの同盟を保ちながらユグノー援助も計画したが、戦費の特別税を求めるため[[1626年]]2月に召集した議会でバッキンガム公は無定見な外交と権力乱用を前議会から引き続いて非難され、かつてバッキンガム公の部下だった{{仮リンク|ジョン・エリオット (政治家)|en|John Eliot (statesman)|label=ジョン・エリオット}}が彼にまつわる汚職・贔屓・外交の失敗を列挙して弾劾したが、チャールズ1世はバッキンガム公をかばいエリオットを投獄、議会解散を命じた。これにより特別税をほとんど得られなかったばかりか、フランスがイングランドを見限りスペインと和睦、イングランドは両国を敵に回り孤立した。しかもバッキンガム公が自ら指揮を執った[[1627年]]のフランス・ユグノー援助に失敗、1000人以上の兵を失う失態を演じ人々の更なる怒りを買い([[ラ・ロシェル包囲戦]])、チャールズ1世が特別税の代わりに強制借上げ金を徴収したことが[[ジョン・ハムデン]]ら[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員の反感を買い、政府は議会の信用を失っていった<ref name="松村136"></ref><ref>森(1986)、P408 - P409、今井、P174 - P178、P189 - P190、塚田、P73 - P78、清水、P20 - P21、岩井、P32。</ref>。
 
[[1628年]]3月、チャールズ1世はバッキンガム公の要請で次こそ特別税を獲得すべく議会を召集したが、反バッキンガム公および反専制で固まった議会から「[[権利の請願]]」が提出され、課税には議会の承認を得ることを求められた。これに対しチャールズ1世は一旦請願受託の署名を行うが、相変わらずバッキンガム公批判を続ける議会から側近を守るため6月に議会を停会した。翌[[1629年]]1月に議会は再開されたが、3月に議会を解散、エリオットを再度投獄し[[1632年]]に獄死するまで監禁、議会が閉じられた状態で専制政治を行った(無議会政治)。しかしこの間、バッキンガム公は1628年6月に私怨で[[暗殺]]されチャールズ1世は側近を失った<ref name="松村136"></ref><ref>森(1986)、P409、今井、P178 - P180、塚田、P78、清水、P21 - P22。</ref>。
 
=== 清教徒革命へ ===
無議会政治の間チャールズ1世は外交を親フランスに切り替え162816294月にフランスと和睦[[1630年]]11月にスペインとも{{仮リンク|マドリード条約 (1630年)|es|Tratado de Madrid (1630)|label=マドリード条約}}を結んで和睦し三十年戦争から手を引いた。内政では財政再建のため[[国王大権 (イギリス)|国王大権]]を濫用、トン税・ポンド税・船舶税などを国民から強引に徴収、[[星室庁]]・高等宗務官裁判所などを使い反対派を処罰、新たな側近として[[トマス・ウェントワース (初代ストラフォード伯爵)|トマス・ウェントワース]](後に[[ストラフォード伯爵]])、[[カンタベリー大主教]][[ウィリアム・ロード]]を取り立て、ロードの助言で宗教をイングランド国教会統一に乗り出し、[[ピューリタン]]を弾圧した。だがロードの政策がスコットランドにも国教を強制するにおよんで、各地に反乱が起きた。一方ストラフォード伯はアイルランドへ赴任・統治したが、こちらも弾圧政策を行ったため不穏な情勢となった。[[1633年]]にチャールズ1世がスコットランド王戴冠式を行った時も儀式がカトリック的だとスコットランド国民から反感を買い、[[1637年]]に国教会の[[聖公会祈祷書|祈祷書]]押しつけに反対した国民が暴動を起こす有様だった<ref name="松村136"></ref><ref>森(1988)、P318 - P319、今井、P180 - P187、トランター、P271 - P272、塚田、P97 - P104、清水、P21 - P24、岩井、P32 - P33。</ref>。
 
やがて[[1639年]]、スコットランド貴族層が[[国民盟約]]を結成し[[主教戦争]]が発生すると、チャールズ1世はスコットランドへ出兵したが自軍が不利だったため、側近の[[ハミルトン公爵|ハミルトン侯爵]](後に公爵)[[ジェイムズ・ハミルトン (初代ハミルトン公爵)|ジェイムズ・ハミルトン]]の工作で一旦休戦したが([[ベリック条約 (1639年)|ベリック条約]])、反乱鎮圧のための戦費を得る目的で[[1640年]]、11年ぶりに議会を招集したが、議会は国王批判の場となった([[短期議会]]・[[長期議会]])。4月の短期議会は[[ジョン・ピム]]を先頭に専制に対する批判が続出したため5月に解散、戦費は得られずスコットランドは国民盟約が主導権を握り、8月の[[ニューバーンの戦い]]で国王軍が敗北するにおよびチャールズ1世は[[カヴェナンター|盟約派]]と和睦するしかなくなり([[リポン条約]])、和睦締結まで北イングランドに駐屯するスコットランド軍の費用を支払う羽目に陥り、財政難のため11月に長期議会を召集せざるを得なかった<ref name="松村136"></ref><ref>今井、P187 - P189、P191 - P192、トランター、P272 - P274、塚田、P104 - P107、P124 - P126、清水、P31 - P35。</ref>。
 
=== 議会との全面戦争 ===
第一次内戦は当初、チャールズ1世の甥に当たる[[カンバーランド公]][[ルパート (カンバーランド公)|ルパート]]と[[ニューカッスル公爵|ニューカッスル伯]][[ウィリアム・キャヴェンディッシュ (初代ニューカッスル公)|ウィリアム・キャヴェンディッシュ]]の働きで10月の[[エッジヒルの戦い]]は引き分け、翌[[1643年]]6月の[[アドウォルトン・ムーアの戦い]]で勝利し互角あるいは王党派が優位であったが、[[9月25日]]に議会派と盟約派が[[厳粛な同盟と契約]]を締結、スコットランドが議会派に加勢し戦況は議会派に傾き始め、[[オリバー・クロムウェル]]率いる[[鉄騎隊]]の活躍により、[[1644年]]7月の[[マーストン・ムーアの戦い]]などで王党派が各地で打ち破られた。1645年6月の[[ネイズビーの戦い]]でチャールズ1世・ルパート率いる国王軍は[[トーマス・フェアファクス (第3代フェアファクス卿)|トーマス・フェアファクス]]を司令官、クロムウェルを副司令官とする[[ニューモデル軍]]に決定的な大敗を喫し、拠点を次々と議会派に奪われ、翌[[1646年]]4月にチャールズ1世は本拠地[[オックスフォード]]から逃亡したが、5月に[[ニューアーク=オン=トレント|ニューアーク]]で駐屯していたスコットランド軍に降伏した。第一次内戦は王党派の敗北になり、[[1647年]]1月にチャールズ1世もスコットランド軍からイングランド議会へ引き渡され囚われの身となった<ref name="松村136"></ref><ref>森(1986)、P410 - P411、森(1988)、P320 - P322、今井、P200 - P209、塚田、P136 - P138、P152 - P154、清水、P60 - P64、P69 - P71、P76 - P82、P88 - P96、P99 - P100。</ref>。
 
全面戦争になったとはいえ、王党派の中には議会派との和睦を諦めない穏健派の人々がいて、[[エドワード・ハイド (初代クラレンドン伯爵)|エドワード・ハイド]](後の初代[[クラレンドン伯爵]])と第2代[[フォークランド子爵]][[ルーシャス・ケアリー (第2代フォークランド子爵)|ルーシャス・ケアリー]]がしばしばチャールズ1世に和睦を進言したが、国王は王妃ヘンリエッタ・マリアと急進派の意見を採用して和睦を拒否、穏健派を遠ざけた。また外国へ渡り王家の宝物売却などで軍資金を集めた王妃からの支援を受け取ったが、内戦が激化すると1644年に王妃を、翌1645年3月に長男の[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ]]王太子(後のチャールズ2世)をハイドに託し、一旦西部へ移動させた後1646年に海外へ亡命させた<ref>塚田、P190 - P195、友清、P4 - P6。</ref>。
 
内戦の最中、チャールズ1世は反乱で背かれたスコットランドとアイルランドから援軍を求め交渉していた。スコットランドを王党派で平定すべく盟約派から王党派に離反したモントローズ伯を侯爵に昇叙、スコットランド総督に任じて帰国させた。モントローズ侯は期待に応え1644年8月に[[アイルランド貴族]]のアントリム伯{{仮リンク|ランダル・マクドネル (初代アントリム侯爵 1645年創設)|en|Randal MacDonnell, 1st Marquess of Antrim (1645 creation)|label=ランダル・マクドネル}}と親戚の{{仮リンク|アラスデア・マッコーラ|en|Alasdair Mac Colla}}と共にスコットランドで挙兵({{仮リンク|スコットランド内戦|en|Scotland in the Wars of the Three Kingdoms}})、1645年には[[インヴァロッヒーの戦い (1645年)|インヴァロッヒーの戦い]]([[2月2日]])・[[キルシスの戦い]]([[8月15日]])で連勝しアーガイル侯ら盟約派を追い落として平定に迫ったが、盟約派の反撃に遭い[[9月13日]]の[[フィリップホフの戦い]]で敗れ、スコットランド平定はならなかった<ref group="注">敗北後もモントローズ侯は諦めずゲリラで各地に出没、盟約派との戦いを続けていたが、1646年にスコットランド軍に捕らえられたチャールズ1世が軍解体を命令したためそれに従い、[[ノルウェー]]へ亡命した。ウェッジウッド、P578 - P582、P629、P637。</ref><ref>トランター、P276 - P280、ウェッジウッド、P374 - P378、P426 - P432、P495 - P502、P517 - P518。</ref>。
=== 再起失敗、処刑 ===
[[File:The Execution of Charles I.jpg|thumb|left|チャールズ1世の処刑]]
[[1647年ハンプトン・コート宮殿]]で軟禁されていたチャールズ1世は1647年11月に一旦[[ワイト島]]へ脱出、ハミルトン公らスコットランド王党派と[[和解契約]]を結んで{{仮リンク|第二次イングランド内戦|en|Second English Civil War}}を勃発させたが、[[1648年]]8月に[[プレストンの戦い (1648年)|プレストンの戦い]]でハミルトン公率いるスコットランド軍({{仮リンク|エンゲージャーズ|en|Engagers}})がクロムウェルの議会軍に大敗、ハミルトン公が捕らえられたため第二次内戦も敗北に終わり(後にハミルトン公は処刑)、11月に再び議会軍に投降した。一方、議会派は戦争終結を巡り国王との妥協を図る[[長老派教会|長老派]]と徹底抗戦の[[独立派 (宗教)|独立派]]が対立、[[12月6日]]の[[プライドのパージ]]で長老派が議会から追放、独立派が残った[[ランプ議会 (イングランド内戦)|ランプ議会]]がチャールズ1世処刑の裁判を進めていった<ref name="松村136"></ref><ref>森(1988)、P411、今井、P213 - P215、塚田、P157 - P159、友清、P7 - P9、清水、P123、P126 - P127、P129 - P138。</ref>。
 
1649年[[1月27日]]、裁判によってチャールズ1世の処刑が宣告された。1月30日、自ら[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]に内装及び天井画を依頼した[[ホワイトホール宮殿]]の[[バンケティング・ハウス]]前で[[公開処刑]]され、チャールズ1世は斬首された<ref name="松村136"></ref><ref>森(1986)、P404 - P406、P411 - P412、今井、P215、清水、P138 - P148。</ref>。彼の最期の言葉は「我は、この堕落した王位を離れ、堕落し得ぬ、人生の極致へと向かう。そこには如何なる争乱も存在し得ず、世界は安寧で満たされているのだ。」(原文"I go from a corruptible to an incorruptible Crown, where no disturbance can be, no disturbance in the World.")であった。([http://anglicanhistory.org/charles/charles1.html 30 January, 1649]).
 
チャールズ1世の処刑後王政は廃止され[[イングランド共和国]]が誕生、これを認めない王党派はチャールズ1世の長男[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]を擁立し議会派との戦いを継続したが({{仮リンク|第三次イングランド内戦|en|Third English Civil War}})、やがてそれらを平定したクロムウェルが[[1653年]]に[[護国卿]]となり、ステュアート朝に代わりイングランド・スコットランド・アイルランドを事実上統治した。チャールズ2世ら王党派がイングランドへ戻れるにはクロムウェル死後の[[1660年]]の[[イングランド王政復古|王政復古]]まで待たなければならなかった。
 
== 子女 ==
* [[塚田富治]]『近代イギリス政治家列伝 <small>かれらは我らの同時代人</small>』[[みすず書房]]、2001年。
* [[山本正 (歴史学者)|山本正]]『「王国」と「植民地」 <small>近世イギリス帝国のなかのアイルランド</small>』[[思文閣出版]]、2002年。
* [[友清理士]]『イギリス革命史(上)』研究社、2004年。
* [[清水雅夫]]『<small>王冠のないイギリス王</small> オリバー・クロムウェル<small>―ピューリタン革命史</small>』[[リーベル出版]]、2007年。
* [[シセリー・ヴェロニカ・ウェッジウッド]]著、[[瀬原義生]]訳『イギリス・ピューリタン革命<small>―王の戦争―</small>』[[文理閣]]、2015年。
* [[岩井淳 (歴史学者)|岩井淳]]『ピューリタン革命の世界史 <small>―国際関係のなかの千年王国論―</small>』[[ミネルヴァ書房]]、2015年。
 
== 関連項目 ==
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