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江戸の東京への改称後、[[即位の礼#明治天皇の即位の礼・大嘗祭|8月27日に即位式]]を挙げた[[明治天皇]]が[[京都]]から東京に移った(9月20日京都出発、10月13日東京着)ことを始め、10月13日江戸城を[[皇居]]とし、東京城と改称した。天皇は12月8日に、東京を発って京都に帰ったが、同年11月、[[姫路藩]]主[[酒井忠邦]]が「藩の名称を改め、すべて府県と一般同軌にして、中興の盛業を遂げられたい」<ref group="注釈">藩が持っているものを全部朝廷に返し、それをうまく利用して新しい国家作りに役立てて貰いたい</ref>という案を出してきた他、木戸孝允が此の案を取り上げた<ref>半藤一利著 『幕末史』 新潮社 2008年 373ページ</ref>。12月22日京都[[還幸]](翌明治2年3月、再度東幸、事実上の東京遷都)。翌年1869年(明治2年)2月には政府の諸機関も東京に移された。これら一連の動きは当時'''御一新'''と呼ばれた。<ref group="注釈">1869年(明治2年)春には、議定は16人、参与は14人に増加したが後に整理が行われた。当時の狂歌に「上からは明治だなどといふけれど、治まるめい(明)と下からは読む」と謳われ、非常に惨憺たる調子で明治政府は始まった</ref><ref>半藤一利著 『幕末史』 新潮社 2008年 370-371ページ</ref>。
 
新政府は未だ財政的・軍事的・制度的基礎が固まっておらず、大久保・木戸らの策謀に強い憤りを抱いていた土佐藩主・[[山内容堂]]や自らを出し抜いた家臣に反感を抱いていた薩摩藩主の[[島津久光]]や[[長州藩主]]の[[毛利敬親]]らは早々に[[所領]]に引き篭もった。長州藩において1869年(明治2年)[[12月1日]]には[[大楽源太郎]]率いる[[奇兵隊]]や[[遊撃隊 (長州藩)|遊撃隊]]が乱を起こし、[[1870年]](明治3年)7月26日に[[薩摩藩]]士・[[横山安武|横山正太郎]]が[[集議院]]門前で抗議の[[切腹]]を行い、[[1871年]](明治4年)には[[二卿事件]]が勃発した。このように新政府がその基盤を置いた薩長でさえも、洋式装備に統一され実戦的訓練を受けた軍隊を擁しており、成立間もない新政府にとって不気味な存在であった。ましてや[[静岡藩]]をはじめとする[[親藩]]・[[譜代]]の諸藩の動静には過敏になっていた。その結果、小規模な蜂起反乱が勃発し、新政府は[[横井小楠]]・[[大村益次郎]]を早々に失い[[雲井龍雄]]処刑の責任者・[[広沢真臣]]が1871年(明治4年)に暗殺されるなど片翼飛行を始めた。
 
木戸・大久保らは1869年(明治2年)[[6月17日]]から25日にかけ、諸大名に命じて領地の領民を天皇に返上させ('''[[版籍奉還]]''')、各[[藩主]]は[[藩知事]]に任命し、[[公卿]]・諸侯の呼称を廃して[[華族]]と改称し、上・中・下士の区別をやめ全て[[士族]]とした。また、知事の[[家禄]]を石高の十分の一に限定し、藩政と知事家政を分離した。これにより、建前として知事と士族の間の君臣関係が消滅し、各藩は済し崩し的に自立性を奪われて明治政府の地方行政単位に転化した<ref>毛利敏著 『大久保利通』 <維新前夜の群像-5> 中央公論新社 1969年 159ページ</ref>。ここに、廃藩と封建制度廃止の決定段階が築かれた。版籍奉還直後の[[7月8日]]に、[[職員令]]により管制を改革し、[[祭政一致]]を建前に[[神祇官]]、[[太政官]]を置いて前者を上位とし、太政官に[[左大臣]]と[[右大臣]]、[[大納言]]、[[参議]]、顧問として[[待詔院]]を置いた。政体書の規定を以て高官公選の互選も行われ、[[輔相]]には[[三条実美]]([[公家]])、[[議定]]には[[岩倉具視]](公家)、[[鍋島直正]]([[佐賀藩]]主)、[[徳大寺実則]]([[公卿]])、[[参与]]には[[大久保利通]]([[薩摩藩]]士)、[[木戸孝允]]([[長州藩]]士)、[[副島種臣]](佐賀藩士)、[[東久世通禧]](公家)、[[後藤象二郎]]([[土佐藩]]士)、[[板垣退助]](土佐藩士)の10名を選出した。9月に入ると王政復古の論功行賞として「[[賞典禄]]」を与えた。