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人心を一新するため同年9月8日(1868年10月23日)には[[年号]]を「'''明治'''」(読み:めいじ)と改めて、'''天皇一代の間に一年号'''とする「'''[[一世一元の制]]'''」を立てた。4月11日の江戸開城後の関東農民一揆を抑えるため、[[東征大総督府]]軍監・[[江藤新平]]は、閏4月1日に「江戸を東京と改め天皇を迎えたい」と[[岩倉具視]]に建言。これに前[[内大臣]]・[[久我建通]]ら京都守旧派の公卿が相次いで反発したため、[[大久保利通]]が「'''[[大坂遷都論]]'''」を建言し、閏3月11日に天皇が関東親征のため、[[大坂]]に行幸するという形で部分的に遷都の準備に取り掛かった<ref>毛利敏著 『大久保利通』 <維新前夜の群像-5> 中央公論新社 1969年 134ページ</ref>。これに、京都市民や[[神道家]]が反発し、[[伊勢神宮]]祠官・[[山田大路陸奥守親彦]]が天皇東行の中止を朝廷に申し入れたが、7月17日に江戸は[[東京]]と改称され、[[鎮将府]]、[[東京府]]設置の政府決定が発表され、鎮将府参与に任ぜられた大久保と鎮将の[[三条実美]]が[[駿河]]以東の13ヶ国を管轄し、[[京都]]と[[東京]]に2つの政府が並立する形となった<ref>毛利敏著 『大久保利通』 <維新前夜の群像-5> 中央公論新社 1969年 142ページ</ref>。
 
江戸の東京への改称後、[[即位の礼#明治天皇の即位の礼・大嘗祭|8月27日に即位式]]を挙げた[[明治天皇]]が[[京都]]から東京に移った(9月20日京都出発、10月13日東京着)ことを始め、10月13日江戸城を[[皇居]]とし、東京城と改称した。天皇は12月8日に、東京を発って京都に帰ったが、同年11月、[[姫路藩]]主[[酒井忠邦]]が「藩の名称を改め、すべて府県と一般同軌にして、中興の盛業を遂げられたい」<ref group="注釈">藩が持っているものを全部朝廷に返し、それをうまく利用して新しい国家作りに役立てて貰いたい</ref>という案を出してきた他、木戸孝允が此の案を取り上げた<ref>半藤一利著 『幕末史』 新潮社 2008年 373ページ</ref>。12月22日京都[[還幸]](翌明治2年3月、再度東幸、事実上の東京遷都)。翌年1869年(明治2年)2月には政府の諸機関も東京に移された。これら一連の動きは当時'''御一新'''と呼ばれた<ref group="注釈">1869年(明治2年)春には、議定は16人、参与は14人に増加したが後に整理が行われた。当時の狂歌に「上からは明治だなどといふけれど、治まるめい(明)と下からは読む」と謳われ、非常に惨憺たる調子で明治政府は始まった</ref><ref>半藤一利著 『幕末史』 新潮社 2008年 370-371ページ</ref>。
 
新政府は未だ財政的・軍事的・制度的基礎が固まっておらず、大久保・木戸らの策謀に強い憤りを抱いていた土佐藩主・[[山内容堂]]や自らを出し抜いた家臣に反感を抱いていた薩摩藩主の[[島津久光]]や[[長州藩主]]の[[毛利敬親]]らは早々に[[所領]]に引き篭もった。長州藩において1869年(明治2年)[[12月1日]]には[[大楽源太郎]]率いる[[奇兵隊]]や[[遊撃隊 (長州藩)|遊撃隊]]が乱を起こし、[[1870年]](明治3年)7月26日に[[薩摩藩]]士・[[横山安武|横山正太郎]]が[[集議院]]門前で抗議の[[切腹]]を行い、[[1871年]](明治4年)には[[二卿事件]]が勃発した。このように新政府がその基盤を置いた薩長でさえも、洋式装備に統一され実戦的訓練を受けた軍隊を擁しており、成立間もない新政府にとって不気味な存在であった。ましてや[[静岡藩]]をはじめとする[[親藩]]・[[譜代]]の諸藩の動静には過敏になっていた。その結果、小規模な蜂起反乱が勃発し、新政府は[[横井小楠]]・[[大村益次郎]]を早々に失い[[雲井龍雄]]処刑の責任者・[[広沢真臣]]が1871年(明治4年)に暗殺されるなど片翼飛行を始めた。
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軍事上の改革では[[民部省]]大輔兼[[軍務官]]副知事の[[大村益次郎]](長州藩士)が「農民を募り親兵」とする[[国民皆兵]]による政府軍を作る計画を進め、[[1873年]](明治6年)1月10日、[[陸軍卿]][[山県有朋]]を中心に[[徴兵令]]を公布し身分に関わり無く[[満年齢|満]]20歳以上の男子に兵役の義務を課した(ただし実質的には、[[徴兵制度]]の例外として[[戸主]]は徴兵を免除され、主として[[戸主]]以外の次三男層や貧農層の子弟が兵役を担ったため、[[血税一揆]]が起きた)。兵役は3カ年。軍隊に直接入隊しない者も、17歳から40歳までの男子はことごとく兵籍を与えられ戦争があるときは呼び出されることとなった。男子の国民皆兵の原則である。この原則が1873年(明治6年)から1945年(昭和20年)の[[第二次世界大戦]]敗戦まで72年間、日本の男性たちの生活を支配した。また、当然ながら女性たちの生活も支配した。しかし、資産家や富裕層など財産のある者は例外となった<ref>鶴見俊輔著 『御一新の嵐』 <鶴見俊輔集・続-2> 筑摩書房 2001年 238ページ</ref>。治安面では[[1874年]](明治7年)東京に[[警視庁 (内務省)|警視庁]]を置いた。華族・士族は廃藩置県後も政府から家禄を支給されていたが、[[1876年]](明治9年)[[金禄公債]]を支給してそれを年賦で支払うこととし、一切の家禄支給を停止した([[秩禄処分]])。これにより[[士族]]の地位は著しく下がった。
 
外交では1871年(明治4年)11月12日、江戸幕府政権時に西洋諸国間と結んだ[[不平等条約]]改正の予備交渉と欧米先進国の文物の調査を目的に、[[岩倉具視]]を全権大使、大久保と木戸を全権副使とする大規模な使節団を欧米諸国に派遣した。この[[岩倉使節団]]には[[伊藤博文]]・[[山口尚芳]]ら中堅官吏が随行し、1年9ヶ月にわたって12カ国を訪問した。その目的の一つであった[[不平等条約]]の改正は成功しなかったが、政府は西洋文明の実態に触れ[[近代化#日本の近代化|日本の近代化]]を推し進める大きな原動力となった。新政府は、日朝国交正常化のため[[李氏朝鮮]]に外交使節を送ったが李氏朝鮮は徹底的な鎖国政策を採り、[[大院君]]政府は何の返事もしてこなかった。次いで、[[釜山]]にある日本公館に対して生活物資搬入妨害するなど、朝鮮側が日本を非難する事件が起こった。これらの理由から1873年(明治6年)夏から秋にかけていわゆる「[[征韓論]]」の論争が起こり、問題が大きくなっていた。6月12日に初めて閣議の議題に上った<ref group="注釈">征韓論はこの時期に突然起こったのではなく幕末からあった。学者や政治家では国防論の元祖[[林子平]]、[[会沢正志斎]]、吉田松陰、橋本左内、藤田東湖なども大いに関心をもっていた。そして、幕末の志士といわれる人たちの共通の課題であった。だから大君院国家に厳重抗議し、いざとなったら叩き潰すくらいの覚悟を持たなくてはならないという共通意識が前々から定着しつつあった。そのような考えを踏まえて[[西郷隆盛]]は、自分が行って厳重抗議してこよう。それでも言うこと聞かないなら戦いも辞さないという強硬論を唱えた</ref><ref>半藤一利著 『幕末史』 新潮社 2008年 414-428ページ</ref>。そこで、政府は8月17日の閣議で[[西郷隆盛]]の朝鮮派遣使節任命を決めた。
[[画像:Seikanron2.jpg|300px|thumb|征韓議論図
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{{small|中央左に[[岩倉具視]]、中央右に[[西郷隆盛]]、右に[[江藤新平]]}}。]]
欧米諸国の[[朝鮮]]進出を警戒して、[[西郷隆盛]]・[[板垣退助]]らは朝鮮の開国を迫り'''[[征韓論]]'''を唱えた。しかし、1873年(明治6年)欧米視察から帰国した岩倉具視・大久保利通らは国内改革の優先を主張してこれに反対した([[明治六年政変]])<ref group="注釈">明治維新の年、天皇は16歳だった。新政府の建設は、年少天皇が自ら指揮を執ることのないままに、天皇の名前によって進められていった。1873年(明治6年)10月24日の征韓論不採用の決定は、明治天皇が自らの意見で決定を下した最初の例だといわれる</ref><ref>鶴見俊輔著 『御一新の嵐』 <鶴見俊輔集・続-2> 筑摩書房 2001年 262ページ</ref>。西郷・副島・後藤・板垣・江藤ら5参議が下野したのち、[[江華島事件]]が勃発して1876年(明治9年)[[日朝修好条規]](江華条約)を結んで朝鮮を開国させた。また、[[清|清国]]に対しては1871年(明治4年)[[日清修好条規]]を結んで[[琉球藩]]を置き、1874年(明治7年)[[台湾]]に出兵した([[征台の役]])。次いで[[1879年]](明治12年)[[沖縄県]]を設置した。ロシアに対しては[[1875年]](明治8年)に[[樺太・千島交換条約]]を結び、[[樺太]]をロシア領、[[千島列島]]を日本領と定めた。また[[小笠原諸島]]・[[尖閣諸島]]・[[竹島 (島根県)|竹島]]も日本の領土とし、日本の領域をいったん確定した。
 
内国行政では[[留守政府]]が1872年(明治5年)2月に田畑永代売買解禁、4月に[[庄屋]]、[[名主]]を[[戸長]]と改称、7月に全国一般に[[地券]]発行を行い、帰国した大久保は1873年(明治6年)に[[内務省 (日本)|内務省]]を設置、[[殖産興業]]の育成に力を入れて[[お雇い外国人]]らを用いて[[富岡製糸場]]など多くの[[官営工場]]を設立した。財政面では、[[民部省]]を統合した[[大蔵省]]の大蔵卿・大久保と大蔵大輔・[[井上馨]]が[[改正局]]を設立して、井上直属の部下の[[渋沢栄一]]を[[掛長]]に抜擢し、1871年(明治4年)には各藩の[[藩札]]等を廃止して[[新貨条例]]を制定、貨幣の単位を[[円 (通貨)|円]]・[[銭]]・[[厘]]に統一した。[[1872年]](明治5年)に[[国立銀行条例]]を制定し[[国立銀行 (明治)|国立銀行]]を各地に作らせた。[[蝦夷地]]は[[北海道]]と改められて'''[[開拓使]]'''を置き、[[屯田兵]]などと共に本格的な開拓事業を展開した。通信では江戸時代の[[飛脚]]制度にかわり、まず[[三府]](東京・京都・大阪)で1871年(明治4年)[[郵便]]事業が開始され、[[電信]]も1869年(明治2年)に東京-[[横浜市|横浜]]間で開通した。運輸関連では1872年(明治5年)[[汐留駅 (国鉄)|新橋]]-横浜間で官営の[[鉄道]]が開通した。海運事業は政府の保護の下に[[三菱商会]]を中心に発達した。建築等も[[煉瓦造]]の建物が見られるようになり、家々には[[石油ランプ]]がともされて街灯には[[ガス灯]]が登場、[[馬車]]や[[人力車]]が走るようになった。軍服には[[洋服]]が採用され、政府官吏が順次服装を西洋化していった。
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[[画像:Eto Shimpei and Shima as fugitives 1874.jpg|thumb|[[佐賀の乱]]の首謀者。[[江藤新平]]と[[島義勇]]。]]
[[画像:Kagoshima battle.jpg|300px|thumb|[[西南戦争]]。鹿児島付近の衝突。]]
1873年(明治6年)の'''[[征韓論]]'''政変により下野した[[板垣退助]]は翌1874年(明治7年)[[後藤象二郎]]・[[江藤新平]]・[[副島種臣]]らと[[愛国公党]]を結成、[[由利公正]]らと[[民撰議院設立建白書]]<ref group="注釈">この建白書を起草したのは古沢滋である。その最初に「臣等伏して方今政権の帰する所を察するに、上帝室に在らず、下人民に在らず、而も独り有司に帰す」で始まる</ref><ref>丸山真男 「自由民権運動史」([[丸山真男]]著 『戦中と戦後の間 1936-1957』 岩波書店 1976年 309ページ)</ref>を明治7年(1874年)1月政府左院に提出し、[[高知県|高知]]に[[立志社 (政治団体)|立志社]]を設立する。この建白書が各地の新聞に掲載されたことで、政府に不満を持つ士族を中心に運動が進められるようになった。一方、民選議院を設立すべきか否かの議論も新聞雑誌紙上で盛んに交わされるようになった<ref group="注釈">尚早論を唱えたのは[[加藤弘之]]で、これに反駁したのは[[大井憲太郎]]である。新聞では[[朝野新聞]]、曙新聞、[[郵便報知新聞]]などが民選議院論を唱え、これに対して[[福地源一郎]]が主筆の[[東京日日新聞]]が、民選議員尚早論を唱え大いに論争した</ref><ref>丸山真男 「自由民権運動史」([[丸山真男]]著 『戦中と戦後の間 1936-1957』 岩波書店 1976年 310ページ</ref>。翌1875年(明治8年)には[[愛国社 (1875年-1880年)|愛国社]]が結成されるが、[[大阪会議]]で板垣が[[参議]]に復帰して[[漸次立憲政体樹立の詔]]を出すとともに、官選の[[元老院 (日本)|元老院]]を設け[[大審院]]を置いて裁判制度を整備し、[[地方官会議]]を開いて地方議会の開設について討議した。また一方で、政府は[[新聞紙条例]]や[[讒謗律]]を制定して急進的な反政府の言論活動を取り締まった。後になり立志社が[[西南戦争]]に乗じて挙兵しようとしたとする[[立志社の獄]]が発生して幹部が逮捕されている。
 
民撰議院設立建白書に名を連ねた[[江藤新平]]は1874年(明治7年)郷里の佐賀で[[島義勇]]と共に不平士族の首領となって反乱を起こした('''[[佐賀の乱]]''')。政府はこれを鎮圧したが、[[廃刀令]]や[[家禄]]制度の廃止などによって[[士族]]の不満はいっそう高まった<ref group="注釈">佐賀の乱を受けて、政府では[[内閣顧問]]の[[島津久光]]が帰郷。[[近衛局長官]][[陸軍少将]]・[[篠原国幹]]や陸軍少将・[[桐野利秋]]といった将官が[[鶴丸城]]下で「[[私学校]]」を創設して士族を教育した。</ref>。1876年(明治9年)熊本で[[神風連の乱]]、福岡で[[秋月の乱]]、山口で[[萩の乱]]と一連の士族反乱が起こり、翌[[1877年]](明治10年)ついに[[西郷隆盛]]を首領とする鹿児島士族ら約4万人が政府に対して兵を挙げた('''[[西南戦争]]''')。西南戦争は政府にとっても大きな試練で、新しい軍隊を総動員して約8ヶ月に渡って[[九州]]各地で激しい戦闘が展開された。戦争のさなか木戸が病死、西郷も自刃し、翌[[1878年]](明治11年)には大久保が東京で不平士族の[[島田一郎]]ら6名により暗殺された([[紀尾井坂の変]])。こうして明治政府の「[[維新三傑]]」体制は終わりを告げ、[[薩長]][[元老]]による官僚[[藩閥]]政権が確立した。