「竹脇無我」の版間の差分

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== その他 ==
* 2001年[[3月1日]]放送の『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]』出演時、「うちの事務所の井澤健(イザワオフィス社長)って人は凄い人でね、あの人だけは尊敬できるんですよ」と語り、また、「自分の名前を若い人が半分くらいしか分からない」で落ち込み、終盤の方では「これで、また名前を覚えてもらえる」とテンション高く語った。
* [[1995年]]、当時[[新日本プロレス]](現・[[ドラディション]])所属の[[藤波辰爾]]は「プロレスの原点回帰」の理想を掲げ、「[[無我 (プロレス)|無我]]」という興行を立ち上げた。翌年、[[みちのくプロレス]]の[[ザ・グレート・サスケ]]はこれに対抗し、10月、[[両国国技館]]で「竹脇」なる興行を行った。当時のサスケはもっともらしい説明をしていたが、当然、竹脇無我に由来する興行名である。
* 一方で本人は、[[1975年]][[12月12日]]に[[東京スポーツ]]が行ったインタビューで、プロレス好きを公言していた。開口一番「昨日プロレス見に行ってねえ、隣の記者が何も知らなかったもんだから、僕が全部解説しちゃったよ」と語り、その後は取材記者とプロレス談義に花を咲かせたという。当時の贔屓レスラーは[[ドリー・ファンク・ジュニア]]と[[ハーリー・レイス]]で、その理由は「いやあ、体が大きくて寂しげなレスラーが好きなんです」とのこと<ref>2011年8月26日付け東京スポーツ「団塊記者の取材回顧録」第39回より</ref>。
* [[アグネス・チャン]]は日本デビュー以前は無我のファンであったと公言している。日本に来て吹き替えドラマではない生の無我の声を聞き、感動したという。