「勇払郡」の版間の差分

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[[江戸時代]]の勇払郡域は[[蝦夷地|東蝦夷地]]に属し、[[松前藩]]によってユウフツ場所が開かれ、交易の拠点や藩の出先機関の機能もある[[場所請負制|運上屋]]では住民の撫育政策である[[オムシャ]]も行われた([[場所請負制]]および[[村請制度]]も参照)。また、苫小牧には[[北前船]]が寄航することもあった。陸上交通は、[[渡島国]]の[[函館市|箱館]]を基点とし[[道東]]や[[千島国]]方面に至る陸路(苫小牧以西は[[札幌本道]]や[[国道36号]]、苫小牧以東は[[国道235号]]の前身)が東西に、また[[文化 (元号)|文化]]年間には勇払から北の[[千歳郡|千歳]]に至る千歳越が通じていた。
 
[[江戸時代#江戸時代後期|江戸時代後期]]、国防のため[[寛政]]11年([[1799年]])勇払郡域は[[天領|公儀御料(幕府直轄領)]]とされ(第一次幕領期)、翌12年には[[八王子千人同心]]・[[原胤敦]]の弟・新助の一行が移住し、[[苫小牧市]]の基礎を築いた。[[享和]]元年([[1801年]])、[[伊能忠敬]]が沿岸部を測量。[[文政]]4年([[1821年]])には一旦松前藩領に復した(松前藩復領期)。この年以降、[[山田文右衛門]]がユウフツ場所を請負うようになった。翌5年([[1822年]])に[[松田伝十郎]]は北夷談を著しその中で幕領期のユウフツについても触れている。[[弘化]]2年と3年には、[[松浦武四郎]]がユウフツを訪れた。また、[[恵比須神社 (苫小牧市)|恵比須神社]]の前身の[[えびす神社|蛭子神社]]は[[嘉永]]3年([[1850年]])よりも前の創建である。[[安政]]2年([[1855年]])勇払郡域は再び天領となり[[仙台藩]]が警固をおこなった(第二次幕領期)。[[大政奉還]]後の慶応4年[[4月12日 (旧暦)|4月12日]]、[[箱館裁判所]]([[閏月|閏]][[4月24日 (旧暦)|4月24日]]に[[箱館府]]と改称)の管轄となり、[[戊辰戦争]]([[箱館戦争]])終結直後の[[1869年]][[8月15日]]、[[大宝律令]]の[[国郡里制]]を踏襲して勇払郡が置かれた。
 
=== 郡発足以降の沿革 ===