「蔣介石」の版間の差分

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戦後、日本の歴代政権は中華民国を反共陣営の一員として、また国連の[[常任理事国]]として修好に努めていたが、日本と中華人民共和国の間に国交樹立の機運が高まると中国国民党は危機感を強め、日本の保守メディアに急接近し様々な宣伝活動を行うようになった(代表例として[[サンケイ新聞]]による蒋介石秘録の連載、[[國民新聞 (1972年-)|國民新聞]]による反中国共産党パンフレットの発行、[[マスコミ総合研究所]]の雑誌アジア・レポートの発行)。そのような中で多くの自民党政治家や保守言論人が蒋介石が主張したとされる「[[以徳報怨]]」を引用して蒋介石礼賛を行った。2008年に[[平沼赳夫]]は「蒋介石が日本の天皇制を守ってくれた」と擁護し、「日本と中華民国の国交が断絶した後も、日本の政治家が中華民国を訪れた時は蒋介石の墓に参るのが礼儀であったが近年は行われなくなった」との批判を行った<ref>2008年1月28日にマスコミ総合研究所の会合にて。</ref>。2009年には[[森喜朗]]が、[[金美齢]]の面前で「日本が今日あるのは蒋介石のおかげであり、日本人は蒋介石に感謝しなくてはならない」とのスピーチを行った<ref>2009年12月23日[[日本李登輝友の会]]が主催した日台共栄の夕べ</ref>。
 
一方、{{誰範囲|date=2017年5月|渡辺望}}は、蒋介石は日記に[[昭和天皇]]を「[[倭王]]」と軽蔑表現するなど精神的にはまったくの反日・侮日家であり、その反日的姿勢は[[南京事件 (1937年代表的なトピック)|南京事件]]などで日本を[[ジェノサイド]]国家にでっちあげようとしたことで明白だという<ref name=wat>『蒋介石の密使 辻政信』(渡辺望 祥伝社新書)2013年に</ref>。また終戦時の「以徳報怨」演説にみられる親日主義的態度も、アメリカに見捨てられつつあった蒋介石が敗戦日本を「新たな同盟国」として抱き込むための苦し紛れの策略であったとしている<ref name=wat/>。また2005年に公開されたCIA機密文書[[ヴェノナ]]で判明した、蒋介石が[[辻政信]]ら旧日本軍将校を敗戦時にエージェントとして抱き込み、敗戦日本に送り込んだと指摘している<ref name=wat/>。また[[BC級戦犯]]として第6師団長[[谷寿夫]]、同師団歩兵第45連隊中隊長[[田中軍吉]]、[[百人斬り競争]]をしたと報じられた[[向井敏明]]少尉と[[野田毅 (陸軍軍人)|野田毅]]少尉らは[[南京軍事法廷]]で処刑されたが、当時の政権は蒋介石の[[中国国民党]]政府であった<ref>秦郁彦「南京事件 増補版」中公新書、p46-50.</ref>(とはいえイギリスやオランダの戦犯裁判に比べると有罪判決の率は少なかった)。
 
=== 中華人民共和国 ===