「長州征討」の版間の差分

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条約勅許の騒動が一段落つくと幕府は長州征伐に取り掛かる。[[11月7日 (旧暦)|7日]]、幕府は三十一藩に長州征伐の出兵を命じる。[[11月20日 (旧暦)|20日]]、場所は広島国泰寺。幕府側が永井尚志、戸川安愛、[[松野孫八郎]]。長州側は名門[[宍戸氏]]の養子となった山縣半蔵こと宍戸備後助が応接にあたった。ここで永井は八か条の質問を宍戸に出すが、宍戸は疑惑を否定した。国泰寺会談には新撰組の[[近藤勇]]、[[武田観柳斎]]、[[伊東甲子太郎]]、[[尾形俊太郎]]も永井の家来として同行した。『京都守護職始末』によると近藤は[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]に会津藩へ出張の報告として、長州藩は武備恭順の姿勢であること、広島に滞陣中の幕府方の士気は落ちているため勝目が薄いこと、長州藩が表面で恭順ならば寛典な処置で対応していく方針が望ましいことを述べた。
 
=== 長州側の動き ===いえい
[[2月20日 (旧暦)|2月20日]]、藩主父子は祖先の霊に対し藩内の擾乱を謝罪するとの名目で祭祀を布告して全ての藩士も参加をさせられた。[[2月28日 (旧暦)|28日]]、毛利敬親は[[湯田]]に入り巡視を行い民心を安堵させ、[[3月16日 (旧暦)|3月16日]]に諸隊は正式に藩の軍隊とされた<ref group="注釈">3月16日に諸隊は奇兵隊((375名、吉田)、御盾隊(150名、三田尻)、鴻城隊または鴻城軍(100名、山口)、遊撃隊または遊撃軍(250名、須々万)、南園隊((150名、荻)、荻野隊(50名、小郡)、膺懲隊(125名、徳地)、第二奇兵隊(100名、石城山)、八幡隊(150名、小郡)、集義隊(50名、三田尻)へ再編され総員は1500名へ削減された。</ref>。[[3月23日 (旧暦)|23日]]、敬親は山口に集まった支藩主へ「天朝へ忠節、幕府へ信義、祖先へ孝道之事」の遵守を伝えたが、吉川経幹は山口へ参集しなかった。[[3月26日 (旧暦)|26日]]、敬親は世子の定広を残して萩へ帰還した。[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]、敬親は山口に戻り経幹は[[5月6日 (旧暦)|閏5月6日]]に山口へ出た。[[5月20日 (旧暦)|20日]]に藩主父子、支藩藩主、経幹は会議を開き、幕軍が攻めてくれば周防長門の二州は一致してことにあたると決議された。