「イシス=ウラニア・テンプル」の版間の差分

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==独立改定儀礼==
ウェイト、ブラックデン、アイトンは今や、かれらの名づけるところの「黄金の夜明けの独立改定儀礼」{{refnest|group="†"|「儀礼」と和訳される {{lang-en-short|rite}} は、特定の位階制度を用いる分派を意味し、そこから転じて「位階制度」、あるいは場合によっては「分派」を指す言葉として用いられるようになった<ref>有澤玲 『秘密結社の事典』 1998年、「儀礼」および「分派」の項。</ref>。}}またの名を「聖黄金の夜明け団」という結社の指導者であった。それは初めから明確に魔術作業を放棄した神秘主義の探求を志していた。しかしながらブラックデンとアイトンは実際にはウェイトに任せて積極的な役割を果たさなかった。この改革された団の支持者には[[アーサー・マッケン]]、[[アルジャノン・ブラックウッド]]、[[パメラ・コールマン・スミス]]、イザベル・ド・スタイガーがいた。この団はまた、1905年にイーヴリン・アンダーヒルという新たな活動的団員も獲得した。アイトン没後、ウェバー大佐が後任となった<ref name="waite">King, 1989, page 96</ref>。ウェイトは第一次世界大戦に至るまでの間、イシス=ウラニア・テンプルの運営を継続し、当初は「暁の星」のアモン・テンプルとの多少なりとも平穏な関係を維持したが、「アルファ・オメガ」との接触は拒んだ。
 
魔術史家フランシス・キングの記すように、新たなテンプルは「あらゆる魔術作業を放棄し、第2団内の試験を廃止し、やや煩雑なキリスト教神秘主義を表現するように重度に改訂された儀式を用いた」<ref name="waite"/>。これらの改訂はウェイトによってなされ、1910年に実行に移された。それはキングの述べるところによると「仰々しく長ったらしい乱雑状態」であった<ref name="waite"/>。ウェイトによる儀式改変は部分的に、暗号文書の起源についての1908年に始まるかれの研究の影響を受けていた。ウェイトは、暗号文書には不整合があり、そのことが表しているのは、暗号文書は真の古代エジプトの伝統など反映していないかもしれず、実際には19世紀後半のある時点で編纂されたものだと結論づけた。これは、ウェイトの発見を受容した人とそうでない人との間に新たな激しい論争を巻き起こした。この論争は、暗号文書はエジプトのファラオを通じて口承された真の古代の知識を表していると主張するマーカス・ブラックデンを隠遁から引きずり出した。この衝突の結果、ウェイトは1914年にテンプルを閉じ、多くの人を引き連れて、黄金の夜明け団やその分派とはまったく独立した新たな結社「薔薇十字同志会」を結成した<ref>Gilbert, Robert A.; p. 72-3</ref>。黄金の夜明け団の研究者R・A・ギルバートは団の終焉についてのウェイトの説明を実証しているが、フランシス・キングの推測によれば、団の終焉のほんとうの理由は多くの達人たちがウェイトの新しい儀式に強い拒否反応を示したためでもあった<ref>King, 1989, page 112</ref>。