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== 生涯 ==
[[淡路国]][[津名郡]][[物部村 (兵庫県)|物部庄]](現:[[兵庫県]][[洲本市]]物部)出身。西来寺(現:兵庫県洲本市[[塩屋]]2丁目)で出家後、臨済宗[[安国寺利生塔#諸国安国寺一覧|安国寺]](現:兵庫県[[南あわじ市]][[八木村 (兵庫県三原郡)|八木]]大久保)に入り、[[東福寺]]永明門派[[大道一以]]の門下で画法を学んだ。その後、大道一以に付き従い東福寺に入る。周囲からは禅僧として高位の位を望まれたが、画を好む明兆はこれを拒絶して、初の寺院専属の画家として大成した。作風は、[[北宋]]の[[李竜眠]]や[[元 (王朝)|元]]代の仏画を下敷きにしつつ、輪郭線の形態の面白さを強調し、後の日本絵画史に大きな影響を与えた。第4代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義持]]からもその画法を愛されている。僧としての位は終生、仏殿の管理を務める殿主(でんす)の位にあったので、'''兆殿主'''と称された。1431年、死去。享年80。
 
東福寺には、『聖一国師像』や『四十八祖像』、『寒山拾得図』、『十六羅漢図』、『大涅槃図』など、多くの著名作品がある。東福寺の仏画工房は以前から影響力を持っていたが、明兆以後は東福寺系以外の寺院からも注文が来るようになり、禅宗系仏画の中心的存在となった。工房は明兆没後も弟子達によって受け継がれ、明兆画風も他派の寺院にも広まって、室町時代の仏画の大きな流れとなってゆく。弟子に[[霊彩]]、[[赤脚子]]など。
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[[Category:1514世紀日本の画家]]
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