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=== 江戸時代中後期 ===
9代[[上杉鷹山|治憲]]は、藩政改革で財政の再建を果たした。なお治憲の隠居所である[[餐霞館]]は三の丸にあるが、これは支候御殿を転用したもので、治憲死去後に支候御殿に戻る。次代の[[上杉治広]]も蘭学医術など学問を奨励するなど、[[文化 (元号)|文化]]7年([[1810年]])に「政治向き格別に行届き、領内治め方よろし」等として表彰。続く[[上杉斉定]]も[[天保]]7年([[1836年]])に表彰されている<ref>「上杉家御年譜」(米沢温故会)</ref>。
 
上杉斉憲の代にも幕府から表彰され、18万7千石に加増された。斉憲は京都で西国雄藩とも交わり<ref>上杉家は東国大名としては珍しく、大坂や京都屋敷を所有。</ref>、文久3年(1863年)には徳川家茂の京都上洛に御供して[[二条城]]警護にあたる。
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[[平成]]9年([[1997年]])伯爵邸は[[登録有形文化財]]となった。
[[2017年]](平成29年)4月6日、[[続日本100名城]](109番)に選定された。
==== 雪の御三階櫓(ライトアップ) ====
[[2017年]](平成29年)[[2月11日]]から2日間、「[[上杉雪灯篭まつり]]」で、米沢[[青年会議所]]が御三階櫓を実物3分の1縮尺の雪像で再現した。
雪で土台をつくり、建物は板などで製作、真っ白な城に仕上げた。窓は米沢で開発された有機EL照明パネルを使用、LEDで[[ライトアップ]]し、カラフルに演出した<ref>山形新聞online(2017年01月16日)ほか</ref>。
 
== 構造 ==
[[本丸]]の内部は享和2年の「松岬城図」が詳しく、本丸中央部に藩主の住居が建ち、東南隅の堤上に[[上杉謙信]]の祀る御堂を建て<ref name="aoki" />、[[天守]]の代わりに東北と西北に三層の隅櫓(御三階)を2基置いた。他に二層櫓が複数設置された。
 
二の丸には藩の役所、世子御殿、御堂に近侍する[[法音寺]]・[[大乗寺]]など御堂に交替で勤仕する[[真言宗]]の二一ヶ寺を置いたのが特色である<ref name="aoki" />。
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* [[大森城]](陸奥国信夫郡) - 同上。[[芋川親正|芋川氏]]が入る。北側の高い場所が城主の館と推定され、主郭の南側には空堀と土塁が残る。
* [[梁川城]](陸奥国[[伊達郡]]) - 同上。城主の[[須田長義|須田氏]]による、本丸の物見櫓跡の石垣や北三の丸の高い土塁など、上杉統治時代の遺構が残る。
* [[鮎貝盛次|鮎貝城]]・ 荒砥城・ [[小国氏|小国城]]・中山城(出羽国[[置賜郡]]) - 寛文の半知以後も存続した置賜郡内の支城。以後は、[[一国一城令]]により城を「役屋」、城主・城代を「役屋将」と改称。鮎貝城址の『収蔵庫鞘殿』内には、本丸と二の丸のミニチュア復元模型あり。
* [[高畠藩|高畠城]](置賜郡) - [[寛文]]4年([[1664年]])まで。ただし、[[織田氏]]の高畠移封の後も上杉家が管理(織田氏は[[陣屋]]を築いて移る<ref>織田氏は[[明和事件]]により、準国主から[[陣屋|無城]]大名に降格されている。</ref>)。文化7年(1810年)の加増で、再び上杉家が正式に所有した。
* [[館山城 (出羽国)|館山城]](置賜郡) - 城跡は国の[[史跡]]に指定されている<ref>平成28年3月1日文部科学省告示第26号</ref>。近年の発掘調査により、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[伊達氏]]の本拠地との説が出され注目されている。ただし、[[石垣]]に関しては、積み方から上杉時代のものと考えられる<ref>「[[石垣の積み方|打込接]](うちこみはぎ)」という1616年以降の積み方になっている。</ref>。「城山」とも称される城跡入り口に、現在は上杉家の「私有地につき立ち入り大歓迎」の表記があり、有志による案内所がある。
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* 招魂碑 - 戊辰戦争と西南の役での両軍の戦死者を慰霊する石碑<ref>上杉家重臣には[[毛利氏]](長州藩の本家筋・越後国佐橋庄)と[[島津氏]](信濃島津家・水内郡太田庄)もいる。</ref>。
* 春日神社 - 上杉氏の氏神でかつての春日山城より移転し、明治期に本丸南西隅に遷座。
* [[伊達政宗]]生誕地の石碑 - 永禄十年(1567)(1567年)伊達政宗はこの米沢城で誕生(近年は[[館山城 (出羽国)|館山城]]で誕生との異説もあり)。
 
== 参考文献 ==