「日中戦争」の版間の差分

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*11月22日、[[関東軍]]が傀儡政権である{{仮リンク|蒙疆連合委員会|zh|蒙疆聯合委員會}}を[[察哈爾省|チャハル省]]と[[綏遠省]]の領域に設立し、[[張家口市|張家口]]に[[駐蒙軍]]が駐屯した。これは後に[[蒙古連合自治政府]]となった。
 
12月1日、中国側の再度の要請に対してスターリンは国際世論を理由に改めてソ連の対日参戦を拒否し蒋介石を失望させた<ref name="usu90to92" />。翌2日から国民党内では、昨月に日本政府から提示されていた和平案が前向きに検討されるようになった。12月3日から中支那方面軍は南京の攻囲作戦を開始し、上海派遣軍は東から、第10軍は南から軍を進めて周辺の陣地を占領しつつ南京を取り巻く長大な城壁へと迫った。[[唐生智]]上将が国際安全区にも部隊を入れさせたので同区委員[[ジョン・ラーベ]]が抗議したが彼は黙殺し、また6日にラーベが提案した攻撃禁止を伴う開城仲裁も一蹴しされた。南京脱出前の蒋介石は和平交渉を受け入れる余地があるとトラウトマン大使に語り、7日に日本政府へ伝えられた<ref name="osg289to300" />。7日未明から蒋介石を始めとする政府高官が次々と航空機で南京から脱出した。南京市内には唐生智上将率いる首都防衛隊約10万人と民間人概ね50万人が残された。なお当時の市内人口については諸説あって一概には定まっていない。9日に総攻撃準備を終えた中支那方面軍は、航空機を用いて南京市内に10日正午を期限とする降服勧告のビラをばら撒いたが結局回答は無かった。
 
12月10日、南京に向けて中支那方面軍の各隊が一斉砲撃を開始し、また付近の要所に突撃した。上海のドイツ式防御陣地とは対照的に、南京の巨大な城壁は野戦砲と空爆のいい的でしかなく、崩落する瓦礫と破砕飛散した片が逆に守備兵を危険に晒して持ち場の保持を困難にした。城壁に押し上げられた大砲は小回りが利かず効果的な迎撃も出来なかった。南京の各城門はしばらく砲撃ないし爆撃を加えられると沈黙して守備兵が避難した後に、日本兵が爆薬を仕掛けるか、または梯子でよじ登って突破された。11日に蒋介石からの撤退指示が唐生智上将に伝えられた。12日に揚子江にいた中国海軍艦艇が逃走を開始し、これを追撃した日本砲兵が[[レディーバード号事件]]を、海軍航空隊が[[パナイ号事件]]を起こしたが近日中に解決した。同日夕方に日本兵は南京市が城壁内に突入し南京市街は大混乱に陥った。
 
*[[12月13日]] - 日本軍が南京を占領した{{sfn|波多野澄雄|2010-01-31|p=6}}。国府軍捕虜、敗残兵、[[便衣兵]]、民間人の大量殺害や強姦を日本軍が行ったとする[[南京事件 (代表的なトピック)|南京事件(南京大虐殺)]]が起きたが、事件について[[南京大虐殺論争|論争]]がある。