「第5回十字軍」の版間の差分
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8月に十字軍の侵攻に苦慮していたアイユーブ朝の[[スルターン]]、[[アル=アーディル]]が亡くなり、息子の[[アル=カーミル]]が跡を継いだ。9月には教皇使節ペラギウスが率いる後発軍が到着し、十字軍の士気は上がったが、ペラギウスが「教皇代理」として十字軍の指揮権を要求したため、ジャンを初めとする諸侯との軋轢も生じた。
十字軍とエジプト軍は対峙し小競り合いを繰り返していたが、[[1219年]]2月になると[[クルド]]族の反乱などが発生し、アル=カーミルはカイロに戻って対応せざるを得なくなった。アル=カーミルは十字軍との和睦を模索し、ダミエッタとパレスチナ南部の二つの城の確保と引き換えに<ref>橋口『十字軍騎士団』、228頁</ref>旧[[エルサレム王国]]領の返却を申し出た<ref name="tate124"/>。加えてアイユーブ朝が有する[[聖十字架|真の十字架]]と、捕虜の返還が和睦の条件として提案された<ref>ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』、414頁</ref>。ジャン・ド・ブリエンヌや現地諸侯はこれを受け入れることを望んだが、ペラギウスは異教徒と交渉することを拒み、またエジプトの商業利権を狙うジェノヴァ勢も反対したため、提案は拒否された<ref name="tate124"/>。これは十字軍に
5月になるとオーストリア公レオポルト6世が帰国
アル=カーミルの包囲を破ろうとする試みも成功せず、10月に入るとダミエッタの疲労は大きくなり、11月についに城壁の一角を占領され落城した。ジャンはダミエッタをエルサレム王国の領土と考えたが、ペラギウスは[[教皇領]]とする意向を示し、怒ったジャンは[[1220年]]2月に[[アルメニア]]の王位争いに介入するために[[アッコン]]に戻ってしまった。
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