「マジノ線」の版間の差分

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[[Image:Maginot Line 1944.jpg|right|250px|thumb|マジノ線に到着した連合軍兵士(撮影地フランス、アルザス地域圏バ=ラン県のClimbach、1944年12月15日撮影)]]
[[Image:Maginot Linie Karte.jpg|right|220px|thumb|マジノ線の地図(ルクセンブルク国境付近)]]
フランスは[[第一次世界大戦]]において甚大な物的、人的損害を被った。敵国であった[[ドイツ帝国]]は大戦に敗北し、[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]としてドイツは[[民主主義国家]]として新たなる道を歩み始めたが、その事をもってドイツの脅威が去ったと捉える者は少なくなく、ドイツに対する軍事的劣勢の解消が喫緊の課題とされた。先の大戦の経験から消耗戦を恐れ、防衛重視の戦略に傾倒したフランスは、戦闘員の不足を補う方策として、国境地帯における要塞の建設を軍事戦略の柱として位置付けた。第一次世界大戦後の一時的なフランスの[[少子化]]・人口減少も、これを推し進めた。
 
第一次大戦下の「[[塹壕戦]]」に於ける膠着した戦闘の様子は小説『[[西部戦線異状なし]]』に鮮明に描かれているが、最前線に[[塹壕]]を構築し、両軍がにらみ合いを続け、双方が笛の音を合図に一進一退の突撃を繰り返す、お互いに塹壕を掘っては取り合うという戦い方は、多くの兵士の命を意味もなく無駄にするだけであった。[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]は、互いの国民を大量に動員し、大量に消費しあう戦争であった。生身の人間の貧弱な防御力と兵器の絶大な攻撃力、両者のあまりのアンバランスが、約500万人の犠牲者を生み出した。戦後、西部戦線参戦国ならばどの国にも例外なく厭戦感が蔓延していた。
[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]は、互いの国民を大量に動員し、大量に消費しあう戦争であった。生身の人間の貧弱な防御力と兵器の絶大な攻撃力、両者のあまりのアンバランスが、約500万人の犠牲者を生み出した。戦後、西部戦線参戦国ならばどの国にも例外なく厭戦感が蔓延していた。
 
構想自体はマジノが提唱する前から存在したが、「一定の間隔ごとに要塞群を配備すべきだ」とする要塞地帯委員長[[ジョゼフ・ジョフル]]元帥と、「連続した要塞線を構築すべきだ」とする陸軍最高顧問[[フィリップ・ペタン]]元帥との間に確執が生じ、妥協案として対ドイツ国境においてはペタンの案が、また対ベルギー・ルクセンブルク国境においてはジョフルの案が採用された。もっとも、対ベルギー国境部分に関しては、ドイツへの[[宣戦布告]]後に本格的な建造が始まったが、結局間に合わなかった。
 
[[1936年]]、幾多の曲折を経てマジノ線は竣工。総工費は約160億フラン、維持費・補強費として更に140億フランが投じられた。難攻不落を期待されたが、[[第二次世界大戦]]開戦後の[[1940年]]に、ドイツ軍は要塞の手薄な北方からマジノ線を迂回するため[[オランダ]]、[[ベルギー]]、[[ルクセンブルク]]の低地諸国を侵攻[[アルデンヌ]]奇襲により国境を越える。アルデンヌの森は自然の要害で、重砲や戦車は通れず行軍は不可能であるとフランス軍は判定していたため、要塞構想の範囲から全く外れていた。しかし、アルデンヌからの森をドイツ軍は戦車を用いて突破、国内に雪崩れ込んだドイツ軍の前に、フランスは満足な抵抗もできぬまま敗北を喫するに至った([[ナチス・ドイツのフランス侵攻]])。
 
[[1944年]]、[[ノルマンディー上陸作戦]]を経て[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍が反攻を開始するとドイツ軍は守勢に回った。連合軍が独仏国境に迫ると、マジノ線の要塞はドイツ軍の防御拠点として利用された。しかし、一定の防御効果はあったものの、長期にわたって連合国軍を阻止することは出来なかった。
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マジノ線構想の戦略上の問題として、以下の点が指摘されている。
*国境一帯を網羅した防御体制を展開するために、常に大量の兵力を配備せねばならなかった。
*[[中立国]]ベルギーを刺激するのを避けるため、また資金不足のため、対ベルギー国境は後回しになり、第二次世界大戦開戦時には構築されていなかった(しかし、第一次世界大戦時にもドイツはベルギー経由でフランスに侵攻しようとした。([[シュリーフェン・プラン]]))。
*{{要出典範囲|date=2012年4月|膨大な建設費や維持費が軍事予算を圧迫し、他部門(新型の戦車や[[戦闘機]]などの調達)に資金を充てる事が困難になった}}。
*「マジノ線の防御は鉄壁である」との過度の期待のため、また上述の通りマジノ線に大軍を投入したため、機動力を軽視する結果に陥った。