「鍋島茂里」の版間の差分

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| 死没 = [[慶長]]15年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]([[1610年]][[9月24日]])
| 改名 = 石井太郎五郎、家俊
| 別名 = ([[仮名 (通称)|通称]])四郎兵衛、太郎五郎、左衛門太夫、<br />平五郎、主水
| 諡号 =
| 戒名 = 見性院殿法山日妙大神儀
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'''鍋島 茂里'''(なべしま しげさと) / '''石井 茂里'''(いしい しげさと)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]。[[肥前国]]の[[戦国大名]][[龍造寺氏|龍造寺家]]の家臣[[佐賀藩]]主[[鍋島氏|鍋島家]]の家老。[[横岳鍋島家]](鍋島主水家)の初代当主。
 
== 生涯 ==
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天正12年([[1584年]])の[[沖田畷の戦い]]で、養父直茂に従って初陣を飾るも、敗戦し、直茂とともに退却。混乱の中、冷静にふるまい、勇ましい戦いぶりであったので、直茂はとても感心し、以来、鍋島隊の先鋒は、茂里につとめさせることを決めたという。
 
龍造寺政家・鍋島直茂が、[[豊臣秀吉]]に通じてその傘下に入ると、龍造寺の人質として、実弟石井孫六(後の[[鍋島茂賢]])や親族の石井三右衛門尉とともに[[小早川隆景]]のもとに預けられ、[[大坂城]]に登った。人質時代、秀吉がみずから剥いた瓜を馳走になり、そのときから、家紋に五つ木瓜紋を用いたという。秀吉の[[九州征伐]]に際して、肥前国に帰還した。
 
[[文禄・慶長の役]]では、一軍を率いて[[朝鮮半島]]へ渡海。直茂・勝茂父子を輔弼し、大いに功績があった。朝鮮では、日本から遠征した各大名が、朝鮮側の軍船の拿捕を競い合ったが、鍋島隊は遅れをとってしまった。すると、茂里は「太閤殿下に報告の際、我が軍が遅れをとったようにみられては、父直茂・弟勝茂の面目が立たぬ」と言って奔走し、どこからか多数の軍船をかき集めてきたという逸話が残っている。
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子孫は、代々佐賀藩家老を世襲し、7千5百石を領した。
 
 
{{DEFAULTSORT:なへしま しけさと}}
[[Category:戦国武将]]
[[Category:佐賀藩士]]
[[Category:横岳鍋島|しけさと]]
[[category:肥前石井氏]]
[[Category:1569年生]]
[[Category:1610年没]]