「日中戦争」の版間の差分

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日本側では、紛争が勃発した当初は[[北支事変]]と称し、1937年9月の[[第1次近衛内閣]]の[[閣議]]決定で'''[[支那事変]]'''を正式の呼称とした{{sfn|波多野澄雄|2010-01-31|p=1}}<ref name=kakugikettei19370902>{{cite web |date=1937-09-02 |url=http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00145.php |title=事変呼称ニ関スル件 |work=[[内閣官房]] |publisher=[[国立国会図書館]] |accessdate=2011-01-22 }}</ref>。[[1941年]][[12月9日]]に[[蒋介石]]の[[国民政府|重慶政府]]が日本に宣戦布告し、事変が戦争にエスカレートしたことを受け、[[東條内閣]]は10日の閣議で[[大東亜戦争]]の一部に含めることを決定した<ref name=kakugikettei19411212>{{cite web| date = 1941-12-12| url = http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00362.php| title = 今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ| work = [[内閣官房]]| publisher = [[国立国会図書館]]| accessdate = 2011-10-15}}</ref>。
 
[[戦争]]でなく[[事変]]と称されたのは、[[盧溝橋事件]]後の本格的な戦闘が行われても、1941年12月に太平洋戦争が勃発するまで両国は[[宣戦布告]]をおこなわなかったからためである。これは「大日本帝国と中華民国が互いに宣戦布告しておらず公式には戦争状態にない」という状態を、事変の勃発当初から日米戦争の開始までの4年間双方が望んだからで、宣戦布告を行わなかった主な理由は双方が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の中立法の発動による経済制裁を避けたかったからであことによる。そして日本側は事態の早期収拾も狙っていた{{sfn|波多野澄雄|2010-01-31|p=1}}。中華民国側は軍需物資輸入に問題が生じることを懸念していた{{sfn|石川禎浩|2010|p=178}}。
 
== 時期区分 ==